山田宏 結局自分が『口だけ』だった

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 山田氏は、2010年に「週刊朝日」で愛人やその子供の存在が報じられていたが、関係を否定していた。妻は当時を振り返り、こう語った。

「当初は『知り合いの子供を、私の子供にして欲しいと頼まれた』と言い訳していましたが、その後、弁護士を通じ、山田の子であることを認めました。結局、認知しましたが、その際に交わした文書では『悪かった』と非を認めて謝っています」

山田氏は、妻との間にも三人の子供がいるが、保育園に通った時期も含め、子育てにほとんど携わらなかったという。山田氏は、妻との離婚を求めて、昨年から裁判を起こしている。

山田氏は、弁護士を通じて、離婚裁判を起こしたことを認め、愛人との子供の認知については「お答えできません」と回答した。

山田氏は、子育てについて自著『第3の道』でこう持論を述べている。

<正しい生き方を自信を持って子供に伝えるには、親自身が胸を張って、正しいと言える生き方をしなくては>

「育児は親の責任」自民党・山田宏氏の愛人・隠し子を妻が告白 | スクープ速報 – 週刊文春WEB

山田宏氏、『いつも綺麗事ばかりを並べて、高みに立って、上から目線で気に入らない実践者を批判する朝日新聞よ。』なんてまさに高みに立った朝日新聞への反論を繰り広げていたのですが、結局どうしようもないクズ親なんじゃないか、自分が口だけだったんじゃないか、としか言いようが無い事実が出てきてしまいました。

この記事に繋がることになった発言『この言葉自体も、私にしてみれば「生んだのはあなたでしょう」と、「親の責任でしょ、まずは」と言いたいところだ。』について、本人はフェイスブックで『匿名で誰が書いたかわからないブログに関して、子供を育てるのは、第一義的には親の責任であり、子育ては国次第、自分の子供を育てることに対して社会が責任をとれ、というのは考え方が違っているのではないか、ということを申し上げました。』なんて言ってるんですが、こういう意見について言いたいのは、お前が支持している政権の訴えている政策はどうなってんだよ?ということです。(親の責任に言及することについての無責任さについては後々)

この『匿名で誰が書いたかわからないブログ』にはこういう記述もあるんです。

一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

そう、一億総活躍という安倍政権が推し進めた政策に乗っかった上での批判なんです。(一億総活躍の中身にはきちんと『仕事と家庭の両立ができる環境づくり』が盛り込まれていたり、“就労促進の観点から”配偶者手当の見直しなどに言及していたり、子育て中も就業が可能な多様な保育サービスの充実の提言が盛り込まれている。)

それを読めずに『親の責任が』なんていわれてもお話にならないわけです。現政権下の政策では、就労し“活躍”することも、親の責任となりつつあるんです。

そのような、一億総活躍社会の中身をきちんと理解したならば、こういう批判は親側に向かずに、そういう価値観を認めるだけに限らず、代表的な政策に掲げてすらいる現政権に向くはずではないのか?と思うのです。

あと、山田氏の発言が出てきた時にしゃしゃり出てきた和田政宗氏

この桃山順子氏の記事にある「誰が好き好んで可愛い我が子の寝顔しか見られない生活を送るもんか」という発言を聞くと、親はそれで良いのですか?、子育てとはそういうものですか?と問いたくなる。

子供はそれを望んでいますか?ということをさらに問いたいし、我が子をまず責任持って育てていくのは、親の責任であることは当たり前である。

その上で、困難な状況を打開するためや子育ての負担が軽くなるよう、周囲がサポートできる体制を作ることが重要であり進めなくてはならないが、まずは子を授かった親としての責任を、人として果たさなくてはならない。

とのべているのですが、これも山田宏と同じく親にすべての責任を押し付ける考えとしか言いようがなく、このような前提で子どもを産めるのは、その押し付けられた責任を難なくこなせる『エリート』か、責任なんて知ったこっちゃないと言えるような人間のみではないでしょうか?

要するに『我が子をまず責任持って育てていくのは、親の責任であることは当たり前』と言ってしまうのは、子育ての特権化にほかならないわけです。

そして、さらに言えば、親が「誰が好き好んで可愛い我が子の寝顔しか見られない生活を送るもんか」と愚痴ることは別に何も『親はそれで良いのですか?、子育てとはそういうものですか?』と問うほどのことではないのではないか?と思うのです。

和田政宗氏は知ってるのかしらないですが、児童虐待には『孤独』が関係しているともいわれています(児童虐待について扱った映画『子宮に沈める』のホームページにも「孤独が、母を追いつめる。」という文言が書かれている。)

その孤独を強化していくのが『子育ての特権化』であり、親の責任を強化することによる『家庭の密室化』ではないのでしょうか?

『(サポートの前に)まずは子を授かった親としての責任を、人として果たさなくてはならない。』などといってしまうと、必要な人はサポートを諦めてしまうでしょう。なぜならサポートが必要な人は「責任を果たせない人間」にほかならないからです。

責任を果たせない人間をサポートせず、責任を果たせる人間がサポートされる。これでは必要なところにサポートが届いていると言えるのでしょうか?
特に、山田宏氏などは保育園の必要性にもきちんと触れているのですが、責任を果たした人にだけ保育園のサポートを与えるということになりかねないのは、公的サポートとしておかしな形であると思わないのでしょうか?

こういう考えで公的サポートを組み立てられてしまったら、たまったもんじゃないな、というのが私の考えです。なので『政治の専門家として失格である』という結果を山田宏氏に突きつけられるように、物事が動くことを願ってやみません。

 

(最後に、『親の責任=母親の責任』という文脈のようになっているということがおかしいという点にも触れておきたいと思います。)

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