山田宏 結局自分が『口だけ』だった | 興味乱舞に引きこもれず
こういう話題をするたびに私が思うことがあります。
それは昔はよかったという話です。山田宏氏や和田政宗氏のような保守政治家は教育勅語を持ちだしたり、なんらかの『今は失われてしまった、昔はよかったもの』を持っていますよね。(江戸しぐさとか)
個人的にはそれの中に『共同体』というものがあると思っていて、もちろん功罪あると思っていますが、共同体による人的ネットワークによるサポートは、子育てはもちろん人が生きるためには重要なポジションを占めていたのではないか?と思うのです。
しかし、今は様々な共同体が崩壊しているといわれています(元々そんなものなかったとかは今は聞いてない)。この崩壊にも功罪あります。功としては『共同体に隠されていたような存在が、オモテに出てくることができた』という事があります。しかしこれは『共同体に隠されていたような存在が、オモテに出てこざるを得なかった』という面でもあります。
下町情緒とか、そういう『下町』といわれるようなもの、『人情』といわれるようなものを『日本精神』なんていう人達が『保守』なのだろうと私は思っています。そのベースとなるのはやはり『共同体』精神ではないでしょうか?
この共同体精神の復活・活用こそが様々な問題の解決への鍵なのではないか?と思っていたりするわけですが、しかし、共同体精神の罪に『規範の暴走』『プライバシーへの度を越した介入』というものが有ったわけです。
そういう罪の部分だけ背負ってるのが現在の義務を煽って炎上していく保守政治家なのかな?と、思い至ったわけです。
確かにコミュニティには規範が必要ではありますが、規範を取り戻してもコミュニティのような信頼関係は構築できなきゃ意味が無いどころか、信頼関係なき規範は共同体の暴走のみを生みだすわけです。
また、人情なき規範もろくなことを生みません。人情と規範のバランスが大事なんだと思われます。
そういうバランスを気にせず、ことさら『日本の精神を取り戻す』とか『日本のこころを大切に』とか言って、実態は規範のみを強化する方向に動いていくというオチは、なんとかならないんでしょうか?
確かに人情や信頼関係を取り戻すのは難しいですが、規範を強化すればそういうものが復活するなんて幻想だということに気づいて欲しいです。
規範を守るためのサポートというか、支えるものをつくることが、規範を強調するよりも今は重要な事だということに気づいて欲しいです。
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