義家弘介氏と体罰

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2人の教諭がこの生徒に体罰を加えていたことについて義家氏は「いじめを助長させる行動だ。子どもを守るはずの教員による、極めて不適切な指導だった」と批判した。

文科副大臣、教諭の体罰は「いじめ助長」 仙台中2自殺

 

義家副大臣は「今回は教師の不適切な指導がいじめを助長させたと言っても過言ではない。教師も自ら申告せず、隠蔽(いんぺい)との指摘を免れることはできない」と批判。「教育委員会が主体となった事実解明や再発防止は困難」と述べた。

仙台市長に調査指導=自殺中2への体罰で―義家文科副大臣

今回、仙台市にて起こったいじめと体罰の後に自殺をした方がいた事について、義家副大臣が先頭に立って市を指導しているようです。

義家副大臣が『体罰』について、現在、批判的な立場で公的に頑張っていることは、色々複雑な感情を個人的に抱きます。

なぜ複雑な感情を抱くのかとしては、義家氏が言うことで体罰批判がさらに説得力を増す可能性があるという肯定的な面だけではなく、義家氏が先頭に立つことで体罰に例外を作らせてしまい、体罰根絶への道を阻害される可能性があること、などを考えてしまうからです。

なぜそのようなことを考えてしまうか、説明します。
俗流若者論ケースファイル83・石原慎太郎&義家弘介義家弘介研究会資料(その6)を参照すると、『「諸君!」平成19年3月号に掲載された、石原慎太郎(東京都知事)と義家弘介(教育再生会議担当室長、横浜市教育委員会委員、自称「ヤンキー先生」)の対談「子供を守るための七つの提言」』にて、体罰関係の通達について見直すよう提言していることを明言しています。

(その通達は『生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得』というものです)

義家氏曰く『こんなものを遵守していたら、教師は生徒指導も何も出来ません』『教師たちは両手両足を縛られたまま、生徒に立ち向かわなければならない。』らしく、石原慎太郎氏がGHQが押し付けたのにアメリカとは違うと言ったあとに『アメリカでは九十年代からゼロ・トレランス(寛容さなしの生徒規律指導)によって、暴力やいじめ、麻薬、アルコール、教師への反抗に対して、ルールを厳格に適用する厳罰主義を実施しています。』とアメリカの教育内容を紹介し、結局『善悪に関する明確な線引きが必要』ということで、悪には徹底的に「これだけは許されない」という線を、きっぱりと子供たちに示す方向性を推進する様子がみられます。

そして、義家氏は、リテラの『生徒を4時間監禁、竹刀が折れるまで…新文科相の馳浩と副大臣の義家弘介が教師時代の体罰自慢対談』という記事を参照するに、別な号の正論で馳浩氏と対談した際に以下のエピソードを披露しています。

2008年、保守論壇誌「正論」(産経新聞社)6月号所収の対談記事でのこと。ふたりは教諭時代を振り返りつつ学校教育について語りあっているのだが、まず義家氏が「生徒指導で大切なこと。これはいったんひいた線は絶対死守することに尽きる」としたうえで、こう語り出す。

「いじめの指導で放課後四時間教室から(生徒を)出さなかった時は他の教職員がハラハラしながら私の教室の外で見守っていて後で散々言われました。(中略)口で『いじめはダメですよ』と説くのは誰でもできる。でもこれはそんな次元で済ましてはダメで態度で示す以外ない。教室の用具はボコボコになり、最後は加害生徒が泣いて詫びながら二度といじめないことを誓ったので終わりにしましたけど、これは仲間内の教職員から散々に言われました」

というように、例え対外的に体罰でも、一旦引いた『これはダメ』という線を守っていればオッケーというような姿勢が丸見えなわけです。

また、戸塚ヨットスクールの校長との激突対談?では『親も教師もきちんとした体罰ができないのだから、体罰を振るえば危険なことになる。』と、『きちんとした体罰』があるかのような、そういう発言があったようです。

そういう姿勢は2013年に、部活での体罰の基準を策定する際にも、露わになっています。

その際に一応、『悪意を持った行為さえ「指導」として許される風潮があるとすれば、これらが体罰かどうか客観的に議論し、子どもを傷つけることをやめさせなければなりません。』と朝日新聞のインタビューに答えていたり、自分のフェイスブックにて『体罰の問題。『自分もやられてきたし、それは、時に必要な事』って人は、はっきり言うが、勘違い、中途半端野郎だ。』と述べていました。

しかし、一方で、J-CASTによると、同時期にとくダネ!に生出演した際には『教師が萎縮しないことが大事。体罰をひと括りにできません。線引きはケースによってそのつど違っていて、起こったことが良い悪いではなく、起こったことをどう解決していくかがいま問われているんだと思います』と述べていたり、毎日新聞の報道では『体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要』というように、一部、体罰を容認しているかのような言動が時々出てきていたようなのです。(読売新聞によると、『一方で、いわゆる「しごき」と呼ばれるような厳しい指導や練習と、体罰との違いが学校現場では明確でない点を指摘。「ミスをしたら、コートを10周しろというのは、厳密に言うと体罰に入るのか、入らないのかといった議論がある。体罰のあいまいな定義の中で、今回のような不幸なことが起きており、部活動での体罰の線引きをしなければならない」』という発言をしていた様子。)

結局、取りまとめた通知には、懲戒行為や正当防衛などの概念が入るなど、体罰とそれ以外の線引きについて、事例集は配ったものの、依然として義家氏が対談で述べていたという『私は正直、体罰という言葉の定義にいつも違和感を抱いてしまうのです。罰を加えるうえで、生徒への悪意、見下した思いに基づくものだったり、生徒を自分の感情のはけ口にするような力の行使は、それは教育ではない。調教か、それですらないと思うのです。許されないことはいうまでもありません。ただ、では教師が力を使えば、全て教育にはなりえないか、教育として否定されてしまうのかといえば、それも違う。敢えて言えば身体を通して教える場面というのはあり得ると思うのです』というような体罰という定義を変えただけだったのではないか?結局『この体罰はオッケー』という抜け穴ができただけではないか?という疑念が残るようなものになってしまっているように思います。

最初に触れたように、このように『適切な体罰』という都合のいい体罰の言葉遊びをしかねない方が体罰問題で表に立っているのは、やはり複雑です。

 

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