「結局今の自民党は支持したくないなぁ・・・」と自民党の2010年版綱領を見て思った

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なんというか、自分たちが野党になって、自己存在を否定されていてもう自我崩壊しそうになったので、自己肯定することで、なんとか崩壊を阻止しよう、という意図が現状認識からは見えてくるような気がします。
特に最初の方の「我が党の勝利でもあった」とか「批判のための批判に耐え」なんていう記述は、いくら真実であったとしても、自己肯定感を味わうための現状認識にしか私には見えません。

自立を誇りとしながら、恵まれぬ人々を温かく包みこむなんて、相当な高等技術なんじゃないかと思う。
今の世の中は自立を誇る者共が、自立しないものを蔑んでいる事が多く感じる。地域社会の絆を持って、みんなで蔑む、そんな状態だとおもう。家族や地域社会の絆は、それ以外の家族や地域社会との隔絶を持って結ばれる場合も多々ある。そして、今の世の中は隔絶を持って絆が作られる場合が多いように感じる。それ以外の絆のつなぎ方を教えてもらえない、想像ができない、そういう状況なのだと思う。

公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民を私は、ほとんど見たことがない。貢献と義務を果たす国民は見ても、それは大抵「仕方ないからやっている」程度でしかなかった。誇りなんて持っていたのは元々ごく一部なんじゃないか、そういう疑問を私は抱いているが、それはタイムマシンでも使って過去に戻ってインタビューしないとわからないことだろう。

「自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい」という文言を見て、自民党が目指す世界は、昔のような「政治に文句を言わない、政府を頼らないで自分たちですべて解決する、意識下の無政府状態」を目指しているように思える。

この綱領は使い捨て綱領なんだろうな、ということを「社会主義的政策」やら「国家社会主義的統治」と言う名を使用しての民主党政権批判の文言があることで、実感する。最初の自己肯定感用の文章といい、こういう文章が「綱領」という立派な名前の文に紛れ込んでしまうんだから、驚き。自民党は、これから数年に一度の間隔で新しい綱領を出していくことになるのではないだろうか。そうしないと、こんな恥ずかしい綱領をずっと表に出しておかないといけなくなってしまうのだから。

「進歩を目指す保守政党」という意味がさっぱりわからない。「進歩を目指す」というのは進歩主義的な方向に行くということだろうが、進歩主義というのは保守主義とは対立する概念ではないか?それを併記してどちらも成立させるとは、随分大胆なことを目指すらしい。まぁ、「多様な組織と対話・調整し」とか書いていることから想像するに、その場に応じて、カメレオンのようにどちらも採用する政党である、と言いたいのだろう。本当にカメレオンのように変われるならそれでもいいのだが、そんな事はカメレオンにしかできないだろう。しかもカメレオンは体の色が変わるだけで、中身まで、つまり脳みその中の意識、主義、思想までは変わることがないのだ。
自民党が政権を落とされた理由は、そういう自らの組織の歴史によってこびりついているはずの固定観念を、はっきりさせることが出来なかったからではないか?一つの政党として必要とされている「こびりついた固定観念」をはっきりさせない限り、国民からのはっきりとした役割の付与は、されようがないと思うのだが。
ある意味、今の政党に求められているのは「偏見の共有」なのではないのだろうか。
そういう点としては「自助自立する個人の尊重」というものがそういう部分になるのだろうが、その後に「全ての人に公正な」とか言ってしまうのが、なんというか目指すのはカメレオンなんだなぁ、という印象を抱く(ここは多少こじつけ気味だろうが)

「努力するものが報われ、努力する機会と能力に恵まれぬものを皆で支える社会」というものを自民党は目指すらしいが、「現実を直視し」てきた政党の認識とはとても思えないような記述だと思う。本当に「現実を直視し」ているならこの記述は『能力あるものが報われ、能力に恵まれぬものを皆で支える社会』になるのではないだろうか?『努力だけで報われると言う教え方が悪かった』という認識が一般的になりつつあるという現実は、自民党にとっては不都合な現実だから、直視できないのだろうか。それとも国民に努力神話を抱かせることで再び政権に付きたいという欲望の元の記述なのだろうか?よくわからないが、私は努力するものが報われるなんていう認識は「時代に適さぬものを改め」る際に、是非改めるべき部分だと思う。

以上の認識を持って、私は今の自民党を支持はしたくないという結論にいたりました。

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