『自民崩壊の300日』にて、福田元総理を振り返る

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読売新聞の政治部が執筆した書籍にて、麻生政権になるまでの経緯として福田康夫氏の事も書かれていたので、そこら辺を読んだ感想をば。

まず、小沢氏との関係について。あの連立構想決裂後も連絡を取っていたとの話に、裏ではちゃんとしているから国会が成り立つのだなぁ、と(国対政治のようなものがないと国会は成立しないということ)。予算案を巡ってパイプが壊れた途端、あの『ガソリン暫定税率』などの歩み寄れない対立が始まったのが、わかりやすいというかなんというか。その『暫定税率復活』について福田氏は国民に申し訳なく感じて辞任も考えていたというのが予想外だった。ただし、外交の混乱を回避するためにその時点では辞任は避けたのだが。
 

福田氏の天の邪鬼エピソード。報道にすっぱ抜かれるのが嫌いなのか、『首脳宣言の文言の表現を変えさせる』『官房長官時代に、イラクの復興支援のために陸上自衛隊を派遣する日時を一日ずらして、事前報道を誤報にしてしまった』という事があったのだという。マスコミ嫌いの方々がこのちょっとだけ違った内容に『マスゴミ騙された、ざまぁwww』とか言っている様がありありと見えてしまった。福田内閣の改造人事が永田町の見通しの日にちよりも数日早く行われ、実は内閣改造を翌日に行うと与党幹部に伝えた時に麻生氏の幹事長就任承諾の確約が取れていなかったり、防衛大臣になった林芳正氏が家族旅行に行っていて呼び込みや記者会見に間に合わなかったのも、この天の邪鬼のためらしい(邪魔な横槍が入るのを危惧した、という意見もある)。
 

麻生氏との確執。麻生氏と福田氏は仲が悪く、麻生氏が福田氏の入閣要請を断って地方行脚しながら福田内閣を批判していたらしい。総裁選でも討論にて官房長官時代の福田氏の対北朝鮮政策を軟弱な宥和路線だったと決めつるような口調で批判したという。しかし改造人事では麻生氏が幹事長に就任した。そこで活躍したのが森喜朗氏と河野洋平氏。特に森喜朗氏が河野洋平氏を口説き落とし、河野氏が『麻生君、自民党は嫉妬の政党だ。党の苦難を前に、総裁が協力を求めている時に、それを断れば『ああ、やっぱり麻生は自分のことしか無い。総理になりたいだけだ』と、ずっと言われ続けることになる。火中の栗を拾いに行くのはよせという人もいるようだが、ここは思い切って飛び込んでやってみたら、君にとっても次の活路が開けるのではないか」とトドメをさしたらしい。

公明党の大臣人数。福田改造内閣では、実は公明党から入閣する大臣数を1人から2人に増やそうとしていたらしい。しかし公明党側がそれを拒否。理由は『大臣なんてのは、連立をつなぐための人質。2人もいらない』というものらしい。連立の人質に大臣とは、大臣は飾りなんだろうか。

突然の辞任。この辞任は本当に誰にも相談されることがなく、一番最初に辞任することを聞いたのは、記者会見の三時間程度前に呼び出された麻生氏だったらしい。その時、福田氏は『(今夜いきなり辞任会見とは)早いですね』と驚いた麻生氏に、自らが決断が遅いと言われ続けたことを皮肉るかのように『早いんですよ、私はこういうことを決めるのは早いんだ』と笑ったという。ちなみに森喜朗氏や青木幹雄氏には会見30分前、公明党の大田氏には40分前に辞意が伝えられたらしい。

ちなみにこの辞任は、麻生氏と、麻生氏との会談に途中から加わった町村氏は『また安倍氏と同じように投げ出しと言われる』からと翻意するように迫ったのだという。辞任しても民主党の協力しない姿勢は変わらないから無意味だとも言って説得したと。しかし福田氏は『民主党に先手を打つことが大事。少しでも可能性があるなら、私はそれにかけたい』と述べたと。ちなみに最初、外交の混乱の回避のために辞任を避けたということを紹介した。しかし、この辞任によって歴史上初めての国際会議無関係の日中韓の三カ国首脳会談や、北朝鮮の拉致被害者再調査が延期されてしまうという外交的な被害を起こしてしまった。これは福田氏が抵抗できないくらいに、政治的に追い込まれていたことを表しているのだろう。

正直、福田政権当時の政治状況を私はほとんど覚えていない(民主党政権以降しか覚えていない)。なのでこういう資料を参考にするしか無いのだが、『自民崩壊の300日』というタイトルからして事実を知るというよりも、当時の空気を知るための資料と見るのが良いのだと思って読もうと思う。

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