「声をあげられない人たち」

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自民党の分配を批判する維新のポスターなのですが、自民党の分配について「最後はそれこそ、次の世代であったり声をあげられない人たちの方に負担がのしかかってくるんです。」と述べています。

しかし、こういう時に思うのは、維新などの「改革」についても、誰かに負担がいっていることを忘れてはいけない、と言うことです。

維新の果たしたつもりの責任と言うのは、こういう改革を行う際に、改革の負担の行き先を「抵抗勢力」だ「既得権益」だ「みなさまがたの税金をむしゃむしゃ食べまくった太った豚」だと、その他の多数の人たちが安心して負担をかけられる相手だという社会認識を形成すること、もしくは安心して負担をかけられる相手を見つけることなのでしょうが。

少なくとも、これまでの維新の批判に対して選挙結果や民意だと反論する際の言動、「文句があるなら議員になれ」という維新の創始者橋下徹氏の言動を思い出すと「声をあげられない人たち」なんて意思決定の際に考慮に入っているとは思えないのです。

と、ここまで書いた時にようやく気づいたのですが、これまでも維新は「声をあげた人」を既得権益者だと批判や揶揄など飛ばしていたわけで、要するに「声をあげられる」のは既得権益であって、「声をあげられる人」は既得権益者、そうでない人を「声をあげられない人たち」と述べているのでしょう。
つまり、私の考えるような「声をあげられない」と維新の「声をあげられない」の前提や定義と言うのが、違っていた。
私はストレートに「弱者」的な定義だと思ったのですが、維新の 「声をあげられない」 というのは要するに「サイレントマジョリティー」のことなのだと。

確かにこの定義に沿うと、これまでの維新の言動とも一致しますし、 『「声をあげられる人」人は既得権益者』、つまり『ノイジーマイノリティ=既得権益者』という前提を置くことで、選挙に勝った後は維新府政などの維新の決定を批判する人を全員「既得権益者」とすることができるので、とても楽に相手の批判を無視することができます。

ちなみにサイレントマジョリティーという言葉は、自民党の柴山昌彦氏が、文科大臣時代に大学入試改革の問題に関して使った言葉でもあります

柴山氏は8月19日、自身のツイッターで、「サイレントマジョリティは賛成です」と発言しました。その後の会見では、入試改革の軸である英語の4技能入試についてのツイートであると説明しています。つまり「サイレントマジョリティは賛成です」という発言は、「大学入試改革について批判的なことを口にするのは少数派。もの言わぬ大半の人たちは、みな賛成している」ということを意味するわけです。

政治家がツイートで一般人を口撃していいのか 試験は対話力重視、自らはブロック (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

ちなみに、同じ自民党の議員が、この入試改革を取りやめたことを功績にしているようで、まさに自民党お得意のマッチポンプという感じがするのですが・・・

ちなみに「教員免許更新制の廃止」も教員免許更新制を推進したのが自民党で、反対していた勢力を右翼が「日教組云々」と揶揄するような話だったはずです。

今日も今週の教育改革で気になった報道をいくつかあげますが、まずは核武装論でも注目を浴びている中川昭一政調会長の発言から。

(中略)

 これを見る限り、安倍首相と考えの近いと言われている中川政調会長が、教員免許更新制を一種の日教組対策として見ているのがわかる。

教員免許更新制は日教組潰しなの? – 西東京日記 IN はてな

教員の負担が増すとして日教組などは猛反対したが、教育再生に不可欠とし、安倍政権が断行した。

今回、文科省は廃止を検討する理由の一つに、教員の負担増をあげる。それでは日教組と同じではないか。

【主張】教員免許更新制 教育再生の流れ止めるな – 産経ニュース

この二つの教育「改革」、起こっていることはどちらも、声をあげた人たちを「ノイジーマイノリティ」として、声をあげられない状態にしつつ、(声をあげていない人も含めた)声をあげられない人たちに負担を押し付けることで解決しようとした。ということが共通点だと思います。

「改革」って軒並みこういう構図なのではないでしょうか。

そういう構図に対し、誰が得するのかわかりずらい(場合によってはわからないままな)改革では注目させずに、分配の話になった時にばかり持ち出されてくると言うのが、私は好きではないのです。

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