問題視されているのは今月3日に配信された動画での発言で、医療・介護費の問題を念頭に「高齢者をもうちょっとでも長生きさせるために、子どもたちか若者たちの時間を使うのかということは真剣に議論する必要があると思う」とした上で、「こういう話、多分政治家は怖くてできないと思う。“命の選別をするのか”などと言われるだろう。生命、選別しないと駄目だと思う。もう、はっきり言うが、何でかというと、その選択が政治だ。その選択をするのであれば、もちろん高齢の方から逝ってもらうしかない」との見方を示したのだ。
医療崩壊の危機に究極の判断をするのは本人か医師か政治家か 「高度治療を若者に譲る」カード発案の医師と考える
大西つねき議員が、上記のような発言をする動画をアップし、それについてれいわ新選組が対応を迫られる、という騒動が発生しまして。
これについて、私はTwitterで見聞した程度ですが、れいわ支持者の言動に愕然とする一方でした。
この発言はどう考えても当事者ではない人間が命の選別を行う、その命の選別こそが政治である、という内容です。そして、子どもと若者の邪魔をする人間の選別を行う、と。そういうことでしょう。
この後引用するような、木村英子氏の主張に対し、「今回は高齢者の話であって、障碍者の話ではない」という趣旨の反論をいくつか見ましたが、そんなの繋がっているに決まっているだろう、というのは、冒頭に引用した発言引用が掲載されている記事のように、あの発言が引き起こすのは、あらゆるシチュエーションで「命の選別を行う」ことを前提とする議論なわけで、そこに障碍者が巻き込まれないなんてことはあり得ないわけです。
そういうことを理解しているからこその「優勢思想」という評価だったりするわけで、それをこれは優勢思想ではなくて・・・と言い出すのは誤魔化しであるようにしか私には思えないのです。
ここで批判してるのは以下のようなツイートです。
また、優生思想ではないという誤魔化しについては荻上チキ氏が反応して、批判しています。
ここで荻上チキ氏のツイートの発端となっている人は、その主張をchange.jpにまとめられています。そこを読むとこのような文言が存在します。
介護職の人達は既に気付いている事ですけど、「命の為と言いながら個人の尊厳を奪っている」現代の医療・介護の実態
高齢者を生かす為に若者の時間と労力を奪っていいのか。って私もそう思う。延命措置してまで生きるって何?と自分は普段から思っているから。高齢者介護の現状を知っているからね。
コロナが感染したら、どう対応するか。入院しても治る見込みがないなら、うちで看取る。そんな話もしています。申し訳ないけど全員助けられないのが現実です。それを現場で判断しなくてはいけない。
イタリアでは80歳以上は治療をしない等、国がトリアージを決めています。お国柄というのもあるでしょうが、実際に医療崩壊しそうになったら起こりえる事です。国が決めてくれたら、私達の心の負担は軽くなります。
どう考えても「高齢者」でとどまるはずがない話になってますよね。助けられないから殺します。それを国で決めてくれれば国民は国の決定を受け入れる形になるので楽ちんですって話になってますし。
ちなみに、この発言について
この他、今回の大西つねき氏の発言を排除するな、と主張する側が、障害当事者で尊厳死を求める意見をRTしているのを見ましたが、徹頭徹尾「死ねない」意見ばかり出てきて、「殺される社会」は想定されないどころか事実から目をそらす意見、私の意見を打ち消すためのものだとして無視される、選別は当然だ、選別するしかないんだと一方的に主張し続ける、「私は若者の邪魔をするものを殺したい」という意思ばかり表面化している、それがこの議論の限界であり、危険である理由だと思います。終末論的といいますか。
(れいわ勝手連新潟というTwitterアカウントをみると、こういう意見ばっかりRTされている様子を見ることができます。)
ここで、ある方の語った言葉を引用します。
私が6年間、参議院の中で活動して思っていたことは何かと申しますと、この殺伐とした空気、そこからつくられていくこれからの社会はおそらく、命の期限、命の期限まで決められてしまうような社会になっていくんじゃないかってことを一番危惧しております。何かの役に立っていなければ生きていちゃいけない、そういう雰囲気ないですか? あなたは何か社会の役に立ってますか? 会社の役に立ってる? 家の役に立っている? そんな空気の中で多くの方々が苦しまれてる。私はそう感じるんです。
で、命の期限が決められるとはどういうことか? 例えば安楽死であったりとか、尊厳死であったり、そういうものを入り口に、「お父さん、お母さんずいぶん長生きされましたね。若い人たちに迷惑かけないように、そろそろいいんじゃないですか?」っていう社会がやってくるんじゃないか? 私はそう思ってるんです。例えば、現在の安倍政権、そこで副総理を務める麻生さん。麻生さんは以前の発言で「いくつまで生きたいんだ?」っていうような趣旨の発言をされてました。これが、これからの政治の向かう道なんであろうと。安楽死、尊厳死ということを入り口に、そのような議論が国会の中で熟議を尽くされるかといったら、私はあっという間に通ってしまう、財政問題を入り口に、人の命の期限を決められてしまうような社会はもう近くまできていると思いました。何かの役に立ってなきゃいけない社会、それは、自分が生きてて良いんだってことを他の人に、社会に証明しなくちゃいけなくなる。それによって悲惨な事件いっぱい起こります。
例えば、相模原事件。多数の障がい者を殺傷した事件。あの人の動機は何だったか? 自分自身が世の中に対して価値のある人間だということを、やはり示したかった。彼の裁判の証言などから見ていくとそのようなことが浮かび上がってくる。「自分は役に立っただろう? 役に立たない人間を殺したんだから」。そういうようなロジックにはまっていく。これ本当、地獄ですよ。そんな世の中。それを考えるならば、私は、非常に有能ですが、難病患者でありそして障がい者。そういう方々に国会の最前線に立っていただき、この命の期限を決められるような社会をなんとか止めなきゃいけない。そういう思いで、昨年の夏、2人に国会に行っていただくことになりました。
ギリギリのところで生きている多くの人たちに対して「あなたは生きていていい」。当たり前のことです。「どんなことがあってもあなたは生きていてもいい」そういう社会を実現していかなきゃ、この先に待ってるの地獄じゃないですか。今、国会の中で、なんでもかんでも雑な議論のまますべて決まっていく中で、この先やって来るだろうと私が予感しているのは、人の命さえも勝手に決められるような状況に陥るんじゃないか。
生産性で人間の価値がはかられる社会、それが現在です。
これが加速すれば、命を選別する社会がやってくる。医療費を口実に、生産性を言い訳に、人間の生きる価値を、期間を、 一方的に判断される時代がもうすぐそこまで迫っている。これらが、雑で拙速な国会の議論で決まっていくのではないかと危惧してます。
誰かの命を選別する社会は、 あなたの命も選別することになる。
これらの言葉、果たして誰の言葉であって、この言葉によって票を投じた人は、どこにいるのでしょうね・・・
一つ目
https://taro-yamamoto.tokyo/transcription/202006291200/
二つ目
https://taro-yamamoto.tokyo/transcription/202007041830/
三つ目
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/reiwa2019
他の方の声明も引用しましょう。
障害を持った幼い時から自分の命を誰かに預けなければ生きていけない私にとって、他者に従うことは絶対でした。私の命、私の身体、私の生活、すべてを他者にゆだねるということは、支配されてしまうことです。
「命の選別」、この言葉は、私が幼いころから抱いていた、「殺されるかもしれない」という避けがたい恐怖を蘇らせました。大西氏の発言は、自分の命を人に預けなければ生きていけない人たちにとって、恐怖をあたえる発言であり、高齢者だけではなく障害者も含めた弱者全体を傷つけた暴言であると思います。
「人は生きているだけで価値がある」という理念を掲げた政党であるれいわ新選組の一員から、今回の発言が出たことに、私は耳を疑いました。
とても悲しかった。そして、地域で差別と闘ってきた私の35年間の活動が否定されたようで、とても悔しく、怒りを抑えられませんでした。
大西つねき氏の「命の選別」発言について
大西氏は、障害者やそのほかの社会的弱者を対象にしたものではないとの趣旨のことをおっしゃっています。
しかし、そこで一度、大西氏のいうように「順番として高齢の方から」という線引きを許してしまえば、その対象は、あらゆるところに広がっていきます。最初は高齢者、次は障害者、難病患者、稼げない人……。私は、進行性の難病があり、人工呼吸器を使わなければ、寿命が尽きています。大西氏の表現する「順番」通りで言えば、すでに線引きの対象にされていたことでしょう。
大西つねき氏の発言に関する声明
こういう意見を聞いたところで「一方の当事者の意見ばかり注目される」「論点が理解できていない」「弱者を盾にしている」「正義の暴走だ」「リベラル様のリンチ」「言葉狩り警察」となってしまうのが、今回の大西つねきを排除するなと言っている人たちです。
誰かさんは「積極的に人間の尊厳を守るというのは共通の主張だ」というのですが、他人の尊厳を守るために誰かの命を犠牲にしましょうという議論、もしくは要介護者は他人の尊厳を犠牲にして生きているのでどうにかしましょうと言う議論を「積極的に人間の尊厳を守る」という主張にまとめるのは非常に危険だと思います。そこには人間だという枠から漏れている人が明らかに存在するわけですから。それを、それを主張する人は「トリアージ」とか「トロッコ問題」と言い出したりするわけですが・・・。
で、悲しい話として、「弱者を盾にしている」「正義の暴走だ」「リベラル様のリンチ」「言葉狩り警察」と言うような考え方と親和的な人たちが、山本太郎氏に乗っかれたからこそ、れいわ新選組の躍進があった可能性があると言うことじゃないでしょうか。
リベラル嫌い、左翼嫌い、弱者と主張する人が嫌い、こういう民意が、山本太郎氏の「本当に救われるべきなのは我々だ」という主張に乗っかっていたという話だったのでは?と。
先鋭化した赤木智弘というか、「希望は選別」論と言うか。
しかし、それでも、と思う。
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。
しかし私は、左派に絶望しつつも、決して右傾化するつもりはない。
いくら右派が責任を持つフリをしたとしても、しょせんは左派と同じ穴のムジナだからだ。左派が我々に不利益を押しつけるのと同じように、右派はナショナリズムをもって、マイノリティーに不利益を押しつける。
結局、自分以外の他者に不利益を押しつけようとする卑劣な姿勢は、右左両派ともに同じである。いわばどちらも、特定の誰かの平和を維持するために、別の誰かに不平等を押しつける「平和・不平等」の考え方に立脚しているといえる。
私は、そうした一方的な「不利益配分」の現状を問題視して、平等の観点から、公平な再配分を実現することを考えている。その一つの形が、好ましい安定性であるところの「平和」に対する不利益配分、すなわち「戦争」の配分である。
誰かに安定性を欠くギャンブルを分配しなければならないのならば、ある一部の人たちだけではなく、全員にギャンブルを分配するべきであり、それは極力平等でなければならない。
だから「あなたが戦争に巻き込まれるのだ」と言われたところで、それは当たり前だとしか思わない。自らが自らに不利益を配分することを了承して初めて、他人に対しても不利益を分配することができる。それが私の考える社会に対する責任の取り方だし、不利益を分配せざるを得ない時代の「平等」のありようではないのか。
そうした考えから、左派に自らを位置づける私は、現在の右左両派のような「平和・不平等」ではなく、「戦争・平等」という方向性、すなわち「国民全員が苦しむ平等」を視線の先に据えているのである。
けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──
このような民意を拾っていたのが、れいわであるのではないか。本当は拾い方を気を付けないといけない、とかそういう考えも嫌いでしょうし、こういう民意は。(だからこそ、この民意が行く先は自民・維新・れいわ・国民民主でしょうね)
そう思うと、とても暗澹たる気持ちに改めてなります。
(別件ですが、立憲民主党嫌い&左派嫌い&民主党嫌いな国民民主党支持者、どんどん増えているように思うので、合流新党はどうしようもない結果にしかならないように見れるのですが・・・)
あと、れいわ支持者、共産党からの批判に対し「都知事選の逆恨み」とか、山本太郎の勢いを殺したいのだ、言い出しているのも、ちょっと…
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