親の「学び」応援する法律を 上野通子・自民党家庭教育支援法案プロジェクトチーム事務局長(参院議員)
自民党が国会提出を目指している家庭教育支援法案は、2006年に改正された教育基本法を受けて、国や地方自治体が家庭教育を支援するためにまとめたものだ。法案を巡り「あるべき家庭や家族像を定義づける狙い」「憲法24条改正の足がかりとなる」という批判があるが、全くの誤解だ。党内議論で「家庭への介入につながるのでは」との懸念の声が上がったため、当初案にあった「社会の基礎的な集団である家族」「子に国家及び社会の形成者として必要な資質が備わるようにする」などの表現は削除した。法案にある「教育基本法の精神にのっとる」との文言に、その趣旨が含まれているからだ。
かつては祖父母や親戚を含む大家族や地域社会の中で子育てができたが、今はひとり親家庭の増加、子どもの貧困、児童虐待が社会問題となり、物事の善悪を判断して子どもに教えることができない親が増えている。
党の食育調査会で貧困状態の子どもに地域で食事を提供する「子ども食堂」を視察した際、「いただきます」とあいさつできなかったり、箸を持てなかったりする子どもがいて、危機感を持った。道徳やモラルを学校教育に取り入れる必要があると考え、道徳の教科化にも取り組んできたが、親や保護者から学ぶべき最低限の生活習慣まで学校で教えることには違和感がある。
改正教育基本法は「保護者は子の教育に第一義的責任を有する」と定めた10条を新設し、「家庭教育」を明記した。法改正を受け、12年の熊本県を皮切りに11県市で家庭教育支援条例が制定され、保護者が親の役割を学んだり、中高生が「親になる準備」として子育ての意義を考えたりする講座などが実施されている。「国の対策や根拠法が必要だ」という要請も強く、14年から党青少年健全育成推進調査会のプロジェクトチームで法案の内容を検討してきた。
子育て支援と家庭教育支援は車の両輪だ。子育て支援は、虐待やいじめから子どもを守る施策など、子どもに対する支援が中心だ。一方、家庭教育支援は、子どもにしつけなどの教育を施す親や保護者を支援するものだ。子どもが抱える問題は、子育てができず虐待してしまう▽いじめに気付かない▽不登校の子どもに向き合えない--という「親としての学びと知識の欠如」と表裏一体だからだ。
今後重視したいのは、自分からSOSを発信できず、孤立している親への支援だ。児童虐待問題では児童相談所や警察が家庭に踏み込めない問題が指摘されているが、訪問型の家庭教育支援によって虐待を発見し、加害者となった親の「学び」を支援することで問題を解決することが期待される。
貧困による教育格差を心配する保護者に対しては、家庭学習のやり方に関する情報提供などの支援が必要だ。図書館を活用した読書・学習機会の提供や、高校中退者の進学・就労支援と合わせて、保護者の教育力向上につなげたい。
家庭教育は全ての教育の出発点だ。社会全体で全ての親の「学び」を応援する態勢作りを進めたい。
これを読んで、私は『理解できない』という第一印象を抱いた。
まず、こども食堂に行き、いただきますを言えない子供や箸が持てない子供を見て、道徳教育に行き着くのが、なんとも飛んでいる気がする。
箸が持てないのは、良きタイミングで教えてあげればいいし、いただきますも、そういうものだと思う。そこから、それ以外のモラルハザードに繋げるのは、個人的には心配しすぎているように感じます。
(個人的に箸の持ち方で育ちが悪いとか思う輩が好きではないのもこういう考え方に反映してるかもしれない)
また、上野議員の『子どもが抱える問題は、子育てができず虐待してしまう▽いじめに気付かない▽不登校の子どもに向き合えない--という「親としての学びと知識の欠如」と表裏一体』という認識も解せない。
知識が有ろうとも、いくら学んでいようとも失敗してしまうのが、人間ではないだろうか?
子育てができず虐待してしまうのは、子育てはこういうものではないといけない、うまくやらないと病気になってしまう、という固定観念(つまり誤っている?知識)が問題ではないか?
(某自治体の与党であった維新会派が制定しようとした、伝統的な子育てをするために親が色々と学ばないといけないとする『親学』を元にした『家庭教育支援条例案』にあるような、発達障碍やアスペルガー、自閉症は親の愛情不足が原因でなるのだ、という話などが代表的。これは一部で正しいとして主張されている知識が、親を苦しめる代表的な例だろう。ちなみに、その親学を推進するセミナーのシンポジウムに上野通子議員が出席している。どうせ今回も親学の考え方が入り込んでいるんでしょ?)
不登校の子どもと向き合えないのは、むしろさまざまな知識が邪魔をするのではないか?(世の中からの見方とか)
いじめに気付かないのは、親側の問題ではなく学校の問題ではないのか?(親が知ることを子どもは嫌がることが多い、という知識があれば、親に知識が有ってもどうしようもない可能性がある、ということに思い至るはずだが…)
などなど、親の知識(だけ)では対応出来るとは思えず、『「親としての学びと知識の欠如」と表裏一体』は言い過ぎだとしか私には思えないのです。
ただ、『自分からSOSを発信できず、孤立している親への支援』というのは間違っていないと思います。
しかしそれは、孤立無縁状態からの離脱を支援することで充分であって、『学び』支援とするのは、むしろ自分が間違っている、間違ってはいけない、という不安を強くして、虐待の原因を強化しかねないのてはないか?と思うのです。
例えば、京都府のホームページの虐待の原因の記述には、『子どもの虐待の原因は様々ですが、大半の虐待する親は、ひとりで苦しみ、悩み続けたその結果が子どもへの虐待となって現れている悲しい現状があります。』とあります。
そこに、保護者に学べと語りかけるのは、負担の強化であり、悩みの強化にしかならないように私には思えます。
また、教育格差の解消に保護者の教育力強化を掲げるのも違和感があります。そこの格差を緩和するのが、義務教育ではないのかな?と。
また、教育に必死になった結果の虐待というのも、一説として言われる話であり、子どもが抱える問題の強化になりかねないのではないでしょうか?
家庭教育がいま社会で重要な位置を占めていることは否定しませんが、それを踏まえて社会をスムーズにするための解決策として、私には『家庭教育支援』というのは、あまりにもその場しのぎであり、あまりにも特定の思想下の理想に偏りすぎているように思います。
この考え方で社会設計を進めてしまうと、親学ではなく親が苦となり、翻って子どもが苦しむ結果になるのではないか?と私は思います。
今必要なのは、個の責任の再構築よりも、公の責任の追及·再構築なのではないかと思います。
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