待機児童問題を社会・労働問題へ

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「保育園作れよ」に共感の背景聞く 解決の手がかりは?:朝日新聞デジタル

――「1歳からすべての子どもに保育を」と主張されていますね。しかし、3歳まで母親が育てるべきだという「3歳児神話」も根強く、違和感を感じる人もいるのでは。

日本の保育所は、子どもを長時間預かる場所というイメージが強いと思います。しかし、オランダの保育所は週3回でもいいし、短時間でもいい。

日本では、地域社会のつながりが減る中、母子で孤立して育児する人が多く、虐待も起きている。親に任せておけばいいという時代ではなくなっています。子どもが友達と会えて、親も、他の親や先生と会って、悩みを言える場所が必要です。

また、男女問わず、子育てをしながら働く人のワーク・ライフ・バランスを進める政策も必要だと思います。

 

3年抱っこし放題などの、育休で全てをすまそうとしていたり、親族などを頼ればいい、みたいな意見に対してはこういう『保育所が人脈などの“社会”を広げる場所にもなっている』ということを考えて欲しいです。

親族も頼れず(存在していたとしても、育児方針で対立して、事実上頼れなかったりする)、昔の『子育ての基本は家族』なんて時代(いつの時代だか知らないですけど)も、俗にいう“共助”の部分である家族の外にある社会とのつながりがサポートしていたから成り立っていたというものがあると思うのです。

そして、その共助の部分が欠落している状態で『子育ての基本は家族』などと煽られても、家族だけの子育てで疲弊しきった人たちの束が積み重なっていくだけではないでしょうか?(共助が行き過ぎて“おせっかい”になり、その結果一度共助を壊しているわけで)

政府は公助を否定するためなのか、必死に『自助第一』を煽っていますが、今本当に必要なのは、自助を成立させるための共助と公助のサポート能力の欠如を補填することなのだと私は思います。

いくら本人の足腰が強くなろうとも、道路が整備されておらず泥沼のような状態で、更に人がうじゃうじゃ居てお互いに前に行くために助け合えずに結果的に邪魔しあわないといけないような状態では、まともに歩くことなんか出来ないでしょう。
(そこをトラックで突っ走っていく人もいるわけですが、全く助けてもらえる気配が無いんですよね)

 

――待機児童の解消には保育士の確保が不可欠です。国は、様々な対策をしていますが、「質についての意識が希薄」と指摘されていました。

児童虐待やアレルギー、経済的に苦しい家庭の子どもの増加などで、保育に必要な専門性は高まっています。しかし、日本は、保育の仕事を「子どもと遊んでいるだけ」と捉える人がまだ多い。保育士の資格は一度取得すれば更新は必要なく、研修をうけるなどで専門性を高めても、賃金増に結びつきません。

ニュージーランドでは、3年に一度の免許更新が求められるなど、専門性をきちんとチェックすることで、保育士に高い賃金を払うことへの国民の合意を得ています。日本でも、保育士の専門性や努力に応じて賃金を上げる仕組みが必要です。

 

この『資格の専門性を高めても賃金が上がらない』という問題点、保育士は特に問題だということなのだと思いますが、他の資格でもこういう話を聞いたことがあるように思います。

たぶん『専門性』というものが評価されない社会にどんどんなっているんだと思います。よく『労働の生産性が低い』なんて言葉が出てきますが、私はそういう言葉を『専門性が評価されていない』という意味だと変換して読んでいます。つまり専門性を評価できる社会にならないといけないわけです。(専門性を評価する余裕が無い問題、と言い換えても良いと思います。)

この保育士の問題は、個別にやらないといけない特殊事情がある部分もあると思いますが、そういう大枠の部分では、他の労働問題を巻き込んで進めていけたらいいなぁ、と思うのです。

単純に保育所問題、と言うと『子育てが出来るような余裕のあるやつの問題で、子持ちじゃない奴との格差が広がった』なんて話が出てくるので、労働問題にまで広げられたらそういう人にもメリットが広がるのかな?と思います。

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