Twitterにて以下のやり取りを見ました。
「信管を抜いた」というのは安全栓を抜いて起爆筒を叩いたということ。一連の動作について「信管を抜く」とする表現は戦記や体験談で時おり見られる。そもそも、文脈から判断できるものごとについて、わざわざ揚げ足を取りに行って嘲笑することが間違っている。 https://t.co/mTz74tAQY8
— 若林 宣 (@t_wak) November 9, 2017
そもそも『「信管を抜いた」というのは安全栓を抜いて起爆筒を叩いたということ。一連の動作について「信管を抜く」とする表現は戦記や体験談で時おり見られる。』という言及に対し『信管を抜いたら爆発しない』一点突破な時点で何も返しとして成立していないのですが、それはそれとして。
この「信管を抜いた」について、何かあるかな、といろいろとインターネット検索をしてると、このような記述にたどり着きました。
・兄と偶然再会して一緒に行動していた。敵軍から十三ミリ機関銃、自動小銃、手榴弾の攻撃を受け、兄が目の前で自決した。自分も出血多量で死ぬと感じたので持っている手榴弾三発のうち、二発を敵の方に投げた。最後の一発は自決用として針金の信管を抜いて叩いた。通常なら信管を抜くと空気が抜けるような音がするのだがその時は音がしなかったのでもう一度叩いた。それでも音がしない。もう死ぬ気になっているので、そのうち破裂するだろうということで胸に当てたまま横になっていた。その間に足の穴からは血がどんどん出て意識不明になった。
一時間後くらいに騒がしいなと思い目を覚ましたら、アメリカ兵が私の周りを取り囲んで治療をしていてくれた。兄は私の4メートルくらい離れたところで倒れていた。この方が繰り返し言っていたのは、「我が子孫まで書き残したいのは、どんなことがあろうとも決して戦争をおこしてはならないと・・・。」という言葉でした。
学術的なものではなく、自分史ビジネスを行っている会社のホームページに掲載されていた、戦争体験談の自分史の一例です。
『針金の信管を抜いて叩いた』という記述が見受けられます。
信管の安全ピンが針金でできている、ということがあるのは調べるといくつも記述が出てくるので、そういうことからも『針金の信管を抜いて』という言葉が『針金の信管(の安全ピン)を抜いて』という事を暗黙に表していることが理解できると思います。
冒頭のツイートで指摘されている『父親が手りゅう弾の信管を抜いた。だが、爆発せず米兵に捕らわれた。』と言う記述が、その後の若林さんの『「信管を抜いた」というのは安全栓を抜いて起爆筒を叩いたということ。一連の動作について「信管を抜く」とする表現は戦記や体験談で時おり見られる。』という事が、真実に近い可能性が高いことは、こう言う所からも多少は類推出来るのではないかな?と思います。
(類推するにしては、私の記事で示したものだけでは、例示が少なすぎると思いますし、「起爆筒を叩いた」まで含む事例ではないのですが、指摘者の方の実績も考慮していただければ・・・)
戦う広告―雑誌広告に見るアジア太平洋戦争
若林 宣 小学館 2008-08-01
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帝国日本の交通網: つながらなかった大東亜共栄圏
若林 宣 青弓社 2016-01-12
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これが『記者の間違い』と3つ目のツイートにて言及されていますが、私は『記者の間違い』と断言はしづらいと思います。
たとえ、行われていたことが本当に『信管を抜いた』だけだったとしたら、それは記憶どおりに体験談が話され、それを記者が書いていた事になりますから間違いではないでしょうし、本当はそうではなかったという明確な裏付けが無い限り、語られた通りに書くのが、体験談として記述する際の記者としての正解なのではないでしょうか?
また、『の安全ピン』という言葉を補う事もありえるとは思いますが、そこは“信管”という言葉が『信管の安全ピン』を示すように使われていることを前提にして、補わなくてもいいという判断をしても間違いではないように思います。
語られた内容について記者が勝手に語句を変えたり補ったりしていて、それが間違いだったとしたら、たしかにそれは記者の間違いなのですが、この記事だけでは大嶺初子さんが語った内容との違いは読み取ることは出来ません。
そのような証拠がない限り『記者の間違い』とは言えないだろうと私は考えます。
私はむしろ、二つ目のツイートにあるように、そもそもこの程度をあげつらう行為の愚かさについて自己反省した方がいいと思います。
まあ、この人の凍結前のアカウントから、見るに堪えない罵倒を常に展開してる様子が確認できるように、元々どうしようもないアカウントなんですけど。
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