「イルカは賢いから殺してはならない」という言説に対して「賢かったら毎年あんな残虐な漁が行われている太知町には来ないだろ」って意見を見て目からウロコ
— 大刀・ザ・スラッシュダーク (@DAIGATANA) 2015, 5月 24
こんな屁理屈で目から鱗が落ちてしまうような人間は、イルカより賢いであろう自分に以下のように意見しましょう
- 賢かったら、ブラック企業に就職なんかしない
- 賢かったら、痴漢されるような場所に行かない
- 賢かったら、痴漢されるような格好はしない
- 賢かったら、自分で労働環境ぐらい整える
- 賢かったら、DVされるような人に近づかない
- 賢かったら、いじめられるような行動をしない
- 賢かったら、いじめられるような場所に行かない
- 賢かったら、拉致されるような危険なところに行かない
- 賢かったら、そんな失敗しない
- 賢かったら、お前みたいな生き方はしない 等々・・・
ちなみに、このツイートへのリプライで『「賢い奴を殺すのはNG」なら「馬鹿は殺してOK」というナチやポル・ポトにも匹敵する様なトンデモ無い理屈を逆に認める事に』と言っている人がいますが、そもそも『賢くても馬鹿でも殺してOK』という現状認識からこの理屈が出発していることに気づいていないようです。 要するに『賢いやつを殺すのはNG』を認めない現状は『賢いやつも馬鹿も殺している』というナチやポル・ポトと同列、若しくはそちらのほうがマシなくらいに無差別殺傷しているということになりかねないのではないでしょうか。 また『賢いやつを殺すのはNG』という意見を発したからと言って『バカは殺してOK』を認める事になんてなるわけがありません。『賢いやつを殺すのはNG』という理屈が認めることは『殺すのがNGでない場合、それは賢くないやつ』程度のことです。 『賢いやつを殺すのはNG』と『馬鹿を殺すのはNG』は両立します。結局、賢いかどうかは『現状殺さないことに反対している人への説得材料』の一つでしか無いわけであり、賢いことにこだわっているのではないということに気付くべきです。 また同じくリプライで『「イルカは賢いから殺してはならない」「そういうお前はバカだから、今から殺すぞ?」・・・って言われたら、何て返事するんでしょうね・・・。』というリプライもありましたが、コレも上と同様に『馬鹿だから殺していいとは一言も言っていない』という返事が帰ってくるだけでしょう。 『賢いんだから殺すな』から『馬鹿は殺していい』と読み取ってしまう人って,ほんとくだらない揚げ足取りしてるなぁ、と思ってしまいます(しかも揚げ足取りにも失敗してる感がある)。自分はこんなバカみたいな揚げ足取りしないように、今後気をつけないといけないと思いました。
-
最後に生産的な話
なんでこんなクソみたいな揚げ足取りが出来るかって、そもそも相手の言説を細かく見ようとしていないからなんだと思うんです。 上のツイートでは『「イルカは賢いから殺してはならない」という言説』と言われていますが、この『賢い』にはこのツイートの周囲では一切の定義が存在していません。 だから『賢い』とか『バカ』というぼんやりワードの応酬、要するにクソの投げ合いになっているわけです。そんなぼんやりワードで議論しても何も産まないので早急に定義をきちんと学んで、それから有意義なクソを投げることを、捕鯨関連でクソ投げてる人には願います。 ちなみに『賢い』というぼんやりワードについて、私は以下の解説ツイートを見て腑に落ちたので最後に掲載しておきます(『水族館とイルカ 何が問題なのか?』というまとめ、お勧めです。)
「メロンは網目つけるために渇えさせる。残酷だ」という人も、たいがい為にする議論です。都会人の机上の空論と言っていいでしょう。植物の苦痛に深く共感する人は稀です。こういった「実感」を整理するために、ベンサムを始祖とする功利主義では、苦痛や恐怖を感じる「受苦能力」を基準に考えます。 — 須田正晴(埼玉・鳩ヶ谷) (@sudahato) 2015, 5月 24
「賢いから虐待するな」は、この立場からくる考え方です。知能が高いほど、閉じ込められることに苦痛を感じますし、周囲の同族が虐待されたり殺されたりすることによっても恐怖を覚えます。「魚に痛覚があるか」は活造りが残虐かどうかの争点に挙げられています。
— 須田正晴(埼玉・鳩ヶ谷) (@sudahato) 2015, 5月 24
コメント