落選したらおしまいではないだろう

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※以下の赤松健氏の発言は7月2日時点の発言です。それ以降に訂正・修正があるかもしれません。

(SNSでの)拡散もこの土日盛り上がらなければ非常によろしくないです。

わたくしですね、序盤は赤松健優勢である、というような報道が出ました。

が、最近の調査で、情勢調査では、かなりの安心感からか、相当下の方になっていると。

これに関して、我々、非常に危機感を持っています。全然余裕じゃないです。

赤松当確なんて言ってる人たちもいますが、そんなことはないです。皆さんのご協力がないと私たちは落ちてしまいます。

私はもし今回落選するようなことが有れば、今まで10(14?)年間やってきましたけども、これは民意ですよ。

「もうやらなくていいよ赤松」っていうことでしょ?

私は、もう、そうなったら…、表現の自由を守る活動、ここからは引退せざるを得ない。
もうやらなくていいよって判断ですよ。

漫画家さんからもいっぱい応援来てますよ。

こういったもの、漫画家さん全員が私を応援しているとは限らないですよ、それは。

そこを私は重く見る。だから、これは私にとって非常に、ここが岐路ですよ。

もしここで、皆さんが応援、そして漫画家さんたちの応援によって、すごい票数でもし通ったら、私は死ぬ気でやりますよ。しかし、ここでですね、やっぱり赤松要らないよという皆さんの判断が下ったら、私は潔くやっぱり、表現の自由、これを守る活動から引退するということを、今思っています。

赤松健演説動画からブログ主文字起こし

特定候補の得票が示す民意をどう読み取るかは、有権者の自由な部分がとても大きいと思うのですが(出口調査とかで調べても推論の余地は残ると思われます)、特に参院選の比例というのは、大量の候補者が全国で得票を狙う制度であるため、有権者の狙い、動きが見えずらい制度であるように思います。(だからこそ組織が頼られやすい制度となる)

過去に『非拘束名簿式比例制度の投票で、何を聞かれているのかについて』なんて記事を書きましたが、参院選比例の投票は『どの政党を選ぶか』と『その党の誰を選ぶか』という2層構造になっているため、有権者はシンプルに個人に投票するわけではありません。

そこをどう利用するか、党が嫌いでも私に入れれば…とやるのか、あなたの好きな党のここの意識を変えて、さらに好きな党にしよう!とやるのか、ひたすら支持組織に向けた動きに注力するのか。

どんな訴えをするかは、当たり前ですが候補者の自由であろうと思います。(が、どういう活動をする候補を擁立しているのかで政党のイメージはだいぶ変わるな、という当たり前のことを、今回の選挙では個人的に改めて実感しています。)

冒頭に引用した自民党の赤松健候補の発言は、そんな有権者の実態が見えづらい比例制度に不安になったがゆえ、色々危機だと示そうとする(支持者の動画の字幕をみると『危機を煽ろうとする』という表現になりますが)言動であろうと思うのですが、『有権者の実態が見えづらい比例制度』だからこそ、その追い込み方はやめたほうがいいのではないか、と個人的に思ったのです。

『すごい票数でもし通ったら、私は死ぬ気でやりますよ。しかし、ここでですね、やっぱり赤松要らないよという皆さんの判断が下ったら、私は潔くやっぱり、表現の自由、これを守る活動から引退するということを、今思っています。』というように、赤松健候補は落選を『赤松は要らない』という民意と解釈すると発言しています。

しかし、先にリンクを貼った『非拘束名簿式比例制度の投票で、何を聞かれているのかについて』という記事でも書いたのですが、比例制度で聞かれるのは『どの政党の議席を増やしたいか』と『その政党の中で誰に当選してほしいか』の2つです。

参院比例は『〇〇が必要だ』を可視化することはできますが、『〇〇は要らない』という選択は可視化できない選挙制度なのです。

そもそも存在が知られていない、他に国政で優先したい問題がある、そもそも所属政党がNG等々、投票されない理由は様々あります。

そして、これまでの赤松氏がそうだったように、物事は国会議員だけが動かしているわけではなく、むしろ余所の動きが国会議員を動かすことも多いわけです。

候補者はそういうことを考慮して活動すべきで、自分に投票されないことを『「もうやらなくていいよ赤松」』という『活動が支持されていない』証拠だと解釈し、『すごい票数でもし通ったら、私は死ぬ気でやりますよ。』と、票数によっては…?みたいな解釈の余地が出来る発言をすることは、本人の当選はたしかに近づくかもしれませんが、いざというときの危機管理といいますか、選挙後のこと、特に落選した場合は何も考えてなさそうに見えて、これまで民間で活動してきた人としてはちょっとどうなの?と思ってしまいました。

個人的に、最近は選挙で当選がすべて!みたいな言動は、ちょっと違うなと思うようになりまして。

《牧原さん》「少額投資」みたいなものですよね。負けた候補者でも、一定の票数をとったら次の選挙につながるんですよ。だから勝った候補に入れることに意味があるんじゃなく、負けた候補の負け方にも意味があり、投票することに意味がある。戦前の男子普通選挙までは制限選挙でした。選挙権というものは本当に勝ち取ったものなので。これは大事にしたほうがいいです。

プチ鹿島さん「接戦区、参加しないと」 参院選前ライブで発した言葉:朝日新聞デジタル

私の今の感覚は上記の牧原出氏のコメントに、選挙以外にもつながるのではという観点を付け足す感じで、選挙の前後には生活とか社会があって、選挙はその途中の採点の一つといいますか、通過点の一つであるということが、今は伝えられるべきことなのかなと思います。

今後ろの方をちょっとだけ読んだ宇野重規氏の『民主主義とは何か』という新書に『「民主主義国家とは、公正な選挙が行われている国を意味する。選挙を通じて国の代表を選ぶのが民主主義だ」と「民主主義とは、自分たちの社会の課題を自分たち自身で解決していくことだ。選挙だけが民主主義ではない」のどちらが正しいか考えてみてください』という内容があって、様々な点を踏まえた答え合わせとして宇野重規さんは『対抗的でありつつも相互補完的に捉えるのが、妥当なのではないでしょうか』となるのですが、この観点からすると後者の「参加」の観点が足りず、選挙ばかり見すぎている結果、選挙への現在なのではないかと思うのです。

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そういう部分の欠如なりが、選挙結果が公正と思えなくなる流れの一因になっているのではないか、と思うのです。

そういう『選挙だけが民主主義ではない』という部分の話を考えていたときに赤松氏の発言が流れてきて、そういう負けたら終わりみたいなのやめたほうがいいな、と思ったので書きました。

選挙は終わっても日常は続きます。

「政治家は落選すればただの人」という言葉がありますが、「ただの人」のときにどうするのかが重要なのではないでしょうか。

今はそうして、『ただの人』が日常の民主主義を建てるときなのではないかと、今の私は思うのです。

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