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『自分たちを「正しい側」に置こうとしている欲』の正体

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このような『週刊文春はゲスなメディアであって、ゲスがゲスを追いかけているところにこそ週刊文春の存在意義がある。』みたいなことって、勝手に読者が決めつけただけのように思うんですよね。

文春が『自分たちを「正しい側」に置こうとしている欲』がなかった時代なんて、制作当事者からしたら多分なくて、正しい側に自らを置こうとして行った行動が、周囲からしたらゲスって話になってただけなんじゃないの、という。(過去には“あの”花田紀凱編集長時代もあったわけで)
例えば、2013年には、安藤美姫氏に対して酷いアンケート調査を行ったわけですが、これも『自分たちを正しい側に置こうとし』た結果としか、私には思えないわけです。

そして、それがずっと『週刊文春はゲス(週刊誌はゲス、でもいいかもしれません)』という“世間的な評価”を受けているという“共通認識幻想”みたいなものが漂っていただけで、近年は文春砲とかみたいな動きからそのゲス認識幻想が無くなっていった、という、万事読者側での受け止めの話でしかないと思うのです。

で、個人的な受け止めなんですけど、『文春はゲスである』というのは、要するに『自分たちが傷つかずに他人事として他人が痛めつけられてるのを楽しめる』ための読者の作法だったのではないかと思うんです。

そういうエンタメとして気軽に人を傷つけるための作法が危うくなったからと言って、文春側に『自分たちは愛される存在なんかじゃないことを思い出せ、文春。』とかいっても、空々しい言葉であって、それは責任転嫁でしかないと思うんです。
他人を傷つける責任だけ週刊誌に負わせて、自分たちは楽しむだけ、という事をしたいと明言してるようなものなのではないのか、と。

そういう人の醜い部分を受け止めるのが週刊誌とかいう話もあると思いますが、それは、そもそも自分たちが醜くてそれが週刊誌に投影されているという事を忘れてはいけないわけで、そこを放り投げてしまうと、上記ツイートのような責任転嫁して自らの潔癖を守る醜さをあっけらかんと表に出してしまうのだろうな、と恐ろしく感じました。

結局、『自分たちを「正しい側」に置こうとしている欲が透けて見える』のは週刊文春ではなくて、読者側なんです。

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