歴史認識

教育勅語の核とは?

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今回取り扱う話題について、3つの報道を引用します。

稲田氏は「勅語の精神は親孝行、友達を大切にする、夫婦仲良くする、高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すことだ」と発言。「全く誤っているというのは違う」と語った。

稲田防衛相「教育勅語自体が全く誤りというのは違う」

学校法人「森友学園」が運営する幼稚園で教育勅語を素読させていることに文部科学省が「適当ではない」とコメントしたことについて、稲田氏は2006年10月の月刊誌で「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」と擁護していた。福島氏は「今もこの考えを変えていないのか」と問うた。

稲田氏は「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と述べた。

(中略)

稲田氏は2月23日の衆院予算委員会でも民進党の辻元清美氏から教育勅語に対する考え方を問われ、「教育勅語の中の親孝行とかは良い面だ。文科省が言う、(教育勅語を)丸覚えさせることに問題があるということはどうなのかと思う。どういう教育をするかは教育機関の自由だ」と答えていた。

稲田氏「教育勅語の精神、取り戻すべきだと今も思う」

(この朝日新聞の記事の写真で、三原じゅん子氏が冷たい目線を福島瑞穂氏に送っているのも注目です。三原じゅん子氏も稲田氏のような考え方をもっているようなので、福島瑞穂氏に対し冷たい目線を送っているのでしょう。)

稲田大臣は「教育勅語の精神である親孝行や、友だちを大切にすることなど、核の部分は今も大切なものとして維持しており、そこは取り戻すべきだと考えている」と述べました。

そして、「教育勅語の精神である、日本が高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すべきだという考えは、今も変わっていない」と述べました。

(中略)

稲田防衛大臣は過去に、雑誌で教育勅語に賛同するコメントを寄せていました。

平成18年に月刊誌が企画した自民党の国会議員の座談会で、「教育勅語の素読をしている幼稚園が大阪にある」と述べたうえで、当時、文部科学省が教育勅語を幼稚園で教えるのは不適当としたことに対して、文部科学省の担当者に「教育勅語のどこがいけないのか」と、みずから問い合わせたとしています。

さらに占領政策で、日本の道徳や価値観が失われたとしたうえで、「教育勅語の精神は取り戻すべき」と発言しています。

また、平成23年には別の月刊誌の中で、「いま国民が日本の伝統的精神が集約された『教育勅語』を求める機運にある」とコメントしていました。

稲田防衛相「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」

以上、一部の人たちが反日のための報道とか騒ぎそうな毎日新聞、朝日新聞、NHKの記事を引用しました。

というわけで、稲田朋美防衛大臣が、過去の見解を問われた結果『教育勅語の核は親孝行や友達を大事にすることだ』という事を言っています。
本当に、そうなんでしょうか?

(以下、Wikipedia明治神宮ホームページ教育勅語と現代語訳教育勅語「国民道徳協会訳」の怪教育勅語を参照)

たしかに教育勅語の徳目の中にそのような内容があります。しかし、そんな内容は教育勅語でなくても普通に大事にしようといろんな場面で言われているわけで、わざわざ教育勅語を引用する必要があるとは思えません。

教育勅語は、12の徳目として触れられていることが多いのですが、その締めは以下の通りです。(大事なものは大抵、締めに来ますよね?)

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)

これが、この12の徳目のオチです。
締めが永遠に続く皇室の運命を支えることなんです。
正直、これを『非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません』とあっさり訳してしまうのはどうかと思うのです。真心ってどっから出てきたかわからないし。

ここで、言及しておきたいのは、明治神宮が掲げているような訳文が、稲田大臣などの教育勅語推進派が参考にしているもののようなのですが、正直この訳文はアレンジが過ぎるリメイク作品なのではないかと思うのです。

例えば『朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ』という部分について、明治神宮などが掲げているような訳文では『私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。』となっています。

この訳文は、まず『私達』という語句を使っていることが不適切のように思います。
皇祖皇宗というのは、あくまでも天皇の祖先の話なわけで、それをわかるように訳さないと、天皇を含む国民の祖先を示しているように読めてしまい、文章が変わってしまうように思います。
現在の国民統合の象徴としての天皇が発しているならばその通りなのかもしれませんが、当時の教育勅語の訳としては不適当だと私は思います。

また、道義国家というどっから出てきたかわからない単語が出てきています。
そもそも道義国家か何を示しているのか定かではないです。
こういう何を示しているのか定かではない単語を訳で持ち出してくるのは不適当ではないでしょうか?

あと、おそらく『惟フニ』が『信じます』と訳されていそうなのもおかしいと思います。
この『惟フニ』というのは、そのまま思うにでいいと思います。

この部分は、要するに天皇の祖先が遥か昔に国を成立させ、奥深い徳を作り上げたのだ、みたいな話をしているのだと思います。
それが、『道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。』となるのは、私はおかしいと思います。

このように、明治神宮が掲げているような訳文は教育勅語そのものを表していると思わないほうがいいように思います。

教育勅語の話に戻りますが、私は、勅語、つまり天皇のおことばで皇室の運命を支えることが語られていることが、教育勅語の重要な部分となってしまっているのではないかと思っています。

ある意味、そこが重要であるということに繋がる文章が教育勅語の中にあります。

それは、先程、訳文の間違いを指摘した冒頭文に続く文章です。
明治神宮が掲げているような訳文では、そこらへんを『私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。』と、道義立国と言い出してて根本を曖昧化してますが、『敎育ノ淵源』がこの部分の文章に現れているのです。

『我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス』
これがその部分の全文ですが、ざっくり訳すと『我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。』というような内容です。

ここで、注目すべきは褒められているのが忠と孝であり、そこに教育の淵源が存在している、と述べていることです。

忠とは『君主または国家に対して、まごころを尽くすこと。』です。
忠義とも言えるようですが、とにかく、君主または国家に真摯に仕えることが忠です。

孝は、『子供が自身の親に忠実に従うこと』です。
これが親孝行と言えばそうなのかもしれません。

この2つと、多分天皇の祖先の徳に教育の淵源が存在している、と述べているわけです。

この部分から、私は、稲田朋美大臣が述べたような「友達を大切にする」のようなものは核ではなく、核は親孝行と天皇に真摯に仕えることにあるのではないか、と思うのです。
(この教育勅語が作られた当時は天皇=国家であるとして、そこを現代に合わせて、国家と訳してしまうと、天皇が抜け落ちてしまうので、不適当だと私は思う。)
そして、その核の一つである天皇に真摯に仕えることが、大日本帝国で、色々都合よく使われたのは、ご存知ではないかな、と思います。

この明らかに核であると思われる、忠などのことに触れず、道義立国だ友達を大事にだというような脇道のようなことに触れ、教育勅語の再評価を促すのは、個人的には危ないことだと思います。

きちんと忠義に触れ、それが核に有ることを前提に、教育勅語については語られるべきだと私は考えます。

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