(2010/09/17 )政治は結果がすべてというが

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よく政治に関しては「結果がすべてであって、言葉で何を言っても意味はない」と言われることが多いですね。
たしかに「結果がすべて」な面も多く、「結果が悪ければ何を言っても意味はない」という意見も間違ってはいないと思います。

しかし、実際に政治を責任をもって行なう人を選ぶ、選挙では、その文言は通用するでしょうか?
普通に考えればわかると思いますが、しませんよね?
選挙では、「私は◯◯を〇〇致します」とか「日本を良くします」とか口の勝負である部分が大きくないと、勝負になりません。
なぜなら、今の議会の決まりでは、結果を残せるのは与党の専売特許だからなのです。
本来は、野党も議員立法などで結果を残せるのですが、与党が政府と全面協力をして法案を審議する立場になってしまっているおかげで、野党ではどうやっても結果が残せないのです。
つまり選挙では「政治は結果が全てである」という文言は封印するか、議会で議員立法が増加しない限り(つまり与党側が政府にべったりで野党の法案を審議しない、なんてことをしないようにしないと)選挙が真に良いものとはならないのではないか?と私は思います。

で、ここでもっと考えるべきなのは、「より良い選挙にする為に」導入されたマニフェストです。
本当にマニフェストはより選挙を良いものにしたのでしょうか?
私の思う答えは、『むしろより悪くした』です。
なぜか。
それは、『マニフェストは議員の行動を縛るものである』と考えられるからです。
マニフェストは、あくまで「政党としての方針」ですよね。
つまり、マニフェストは、選挙で言うならば、政党へ比例票を投じる時の基準でならば、おかしくないんです。
なぜなら政党としてはそういうふうに動くということが明白に分かるので、基準にしてもおかしくないのです。
まぁこう書いていると、そもそも比例代表制が政党の一兵卒しか生み出さないで、個人能力として劣った議員を生み出しているのではないか?なんて考えてしまうのですが、それについてはまた今度、気が向いたときにかくと思いますし、以前にも書いている気がします(笑)

とにかくそういう話しはおいといて

マニフェストは政党への投票には利用してもいいと思います。
しかし、今のマニフェスト選挙では、選挙区で、個人を選ぶときにも、マニフェストが出現するのです。
これはおかしいと思うのです。
これは小選挙区制度に対する批判にもなるのですが、選挙区ではあくまで個人の戦いであるという名目なはず(つまり議員の能力で対決するべき制度であるはず)なのに、そこに政党の方針が入ってくるということは、結局、政党を選んだだけで、議員は誰でもいい、という考え方を助長している物になってしまうのです。
もっと極端に言うならば、
『議員は只の奴隷であり、思考能力など一切必要なく、政党の言いなりになって、マニフェストに書かれたことをロボットのようにこなせばいいんです。』
という考え方を作り上げるのが今の制度であり、マニフェストである。ということです。
さて、こんな考え方で選ばれた議員で結果など残せると思いますでしょうか?
私は思いません。

言いなりロボットの集まりになってしまうような制度では、結果など出るわけがないのです。
つまり、近いうちに選挙制度をロボットを選ばないような形に改正しない限りは、いくら議員定数を削ったり、有権者が政治に興味を持っても、国会議員が精鋭集団になることは有り得ないと私は考えるのです。

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