若者ホームレス白書完成しました。|活動報告・イベント案内|ビッグイシュー基金
2010年12月にビッグイシュー財団が作った若者ホームレス白書を改めて引っ張り出して読んでみている。
まだ細かくは読んでいないのだが、冒頭の『ホームレスの定義』を読んで思ったことは、ホームレス方面での政治の動きが鈍感である上に違和感があるということだ。
ホームレスの定義を決めた法律
日本の法律にホームレス関係の法律は存在する。
平成14年に執行された時限法である『ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法』という法律がそれだ。
この法律の名前を見て、私の頭のなかには、一つの疑問が浮かんだ。
『自立』?
自立とは以下の意味を指す言葉のようだ。
他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」
この法律に自立という言葉が選ばれている理由や、自立という状態がどういう状態を指しているのかが私にはわからないので、具体的に否定することは出来ないが、この後触れる、ホームレス白書での調査結果などの、巷にあふれるニュースサイトなどで見たホームレス関係の情報を考慮したら『これらの者を自立させること。』と言うのは、個人的には表現が誤っているのではないか?と思う。
また、この法律の条文にホームレスの定義がある。
第二条 この法律において「ホームレス」とは、都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者をいう。
“故なく” 故なくというのは『理由がなく』とかの意味の言葉だ。
要するにホームレスは公園などを『不法占拠』しているという前提の下で作られた法律なのだ。
行政であることから、このような認識であるのは仕方ないのだろうが、個人的にはこのような表現の節々からホームレスへの否定的な認識を読み取ってしまう。
また、これはホームレス白書で触れているのだが、この法律の定義では『深夜営業店舗などで過ごしている路上に居ないホームレス』や『知り合い(?)の家を渡り歩いている人』などがすっぽり抜け落ちてしまっている。
そういう点も『路上で不法占拠や景観を汚すような邪魔をしなければどうでもいい』というメッセージなのではないか、と思ってしまう。
ホームレスの定義について、ホームレス白書では稲葉剛氏の『ハウジングプア』という本で用いられていた概念を引用している。
『家があるが、居住権が侵害されやすい状態』⇔『屋根があるが、家がない状態』⇔『屋根がない状態』
この概念で『家があるが、居住権が侵害されやすい状態』以外が『ホームレス』だ、というのがホームレス白書でのホームレスの定義のようだ。
ホームレス白書での調査結果
具体的な数字はホームレス白書を読んでいただくとして、ここでは気になった記述を幾つか引用する。
寮に住み込みの職を失うと同時に家を失う
家賃を払えなくなり、路上に出る
不安定な就業状況の中、家族との確執を深めたり、多額の借金をし、迷惑をかけたことで実家に居づらくなり路上に出た
ホームレスになるきっかけの7割が仕事関係の事だったのようだ。仕事というものがどれだけ重要なものか、ということがこの調査結果からもわかる。
4人のうち3人は就職活動をしていない
住所、本人確認書類、携帯電話、保証人等がないため、実際に就職活動を行っても、採用段階で断られてしまうなどの理由
年齢制限、経験不足などさまざまな理由で求職活動の段階で門前払いを受けてしまっているケースも少なくない
意欲があっても、これまで仕事を通して受けた過酷な労働体験やイジメなどによるトラウマのせいで、仕事をする意欲を失っている人もいた。
仕事がどれだけ重要かがわかった後に、4人に3人が就職活動をしていないという結果を聞くと、一見『働こうとしろよ』と、ホームレスの方の無意欲を責める方向に意識を向ける人も少なく無いだろう。
しかし、その就職活動を行わない理由はしっかりと存在していることが多い。それを解消することなく、ホームレスの方を責めても、何も生まれないどころか、事態は悪化するのみだろう。
8割以上が正社員経験者
半数以上が転職を5回以上経験(不安定就労を転々とする形、職種も仕事内容もバラバラであることが多い)
解雇、倒産を経験した人4割
派遣労働経験者約7割、2人に1人が製造業派遣で働いた経験あり
正社員経験者が多いのは意外な結果。しかしそれ以外は、見事に印象通りの結果になっているように思う。
経験やスキルの積み上げが出来ない、悪循環が続いていき、それが格差となっていく社会が出来上がっているのではないか?と私は思っている。
個人的感想
ホームレス白書の調査結果を見て、私は『これ、過度の自立(≒孤立)が原因なんじゃないの?』という感覚を強く抱いた。
『他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること』これを強いられてしまっている(若しくは自ら強くそれを欲している)ことがホームレスの背景にはあるのではないか?と思うのだ。
要するに必要なのは『自立の支援』ではなく、『依存先の構築』なのではないだろうか?と思うのだ。
熊谷晋一郎氏は『自立は依存先を増やすこと』と述べている。(自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと)もっと具体的に言うと、以下のように述べている。
“自立”とはどういうことでしょうか?
一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。
実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。
これは、熊谷晋一郎氏自身の経験である障害のことを語った文章だが、この自立と依存の関係はそれ以外のことにも利用できるものだと思う。
そしてホームレスの方を考えるときにも、この関係を前提に考えていかないと、依存先を移してその依存先が頼れなくなって、元通りになって終わりという残念な結末になってしまうのではないだろうか?
そういうことを考えると、安易に『自立させる』を目的とする(かのように見える)法律によって行う支援では、ホームレス問題は加熱はすれど、解決はしないのではないだろうか。
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