オリンピックと感動

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安倍晋三オリンピック組織委員会名誉最高顧問がオリンピック反対派について「極めて政治的な意図を感じざるを得ませんね。彼らは、日本でオリンピックが成功することに不快感を持っているのではないか」「共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対しています。朝日新聞なども明確に反対を表明しました」と語った酷いインタビューがあった。

民意を読まぬ安倍元首相のレッテル貼り 「反日的な人が五輪に反対」に批判殺到 :東京新聞 TOKYO Web
「月刊Hanada」8月号に掲載された安倍晋三前首相の発言が物議を醸している。東京五輪に対し「反日的」な人たちが開催に強く反対している...

このインタビューで安倍晋三氏はこうも語っていた。

「この「共有する」、つまり国民が同じ想い出を作ることはとても大切なんです。同じ感動をしたり、同じ体験をしていることは、自分たちがアイデンティティに向き合ったり、日本人としての誇りを形成していくうえでも欠かすことのできない大変重要な要素です」

「日本人選手がメダルをとれば嬉しいですし、たとえメダルをとれなくてもその頑張りに感動し、勇気をもらえる。その感動を共有することは、日本人同士の絆を確かめ合うことになると思うのです」

安倍晋三が櫻井よしことの対談で「反日的な人たちがオリンピック開催に反対」と暴言! 4年前の「こんな人たち」発言の再現

それが日本人としてのアイデンティティに繋がるかは知らないが、オリンピック開会式で『同じ感動をする』『同じ体験をしている』『絆を確かめ合う』様子を見かけた。

とくに『感動』を見かけたのは、ゲーム音楽が使われたときであった。

このような『感動』をしてしまった上で、オリンピック自体に否定的になるというのは、人間としてとても難しいことになるのではないだろうかと考えてしまう。

人間はどうしてもその時の感情に色々と辻褄を合わせてしまうであろうし、矛盾したものを抱えきれるほど強い人間はなかなかいないように思う。(抱えられず大概は過去を忘却しすっとぼけがちではないか。)

それでも感動や美を感じることと、善悪・賛否はリンクしないということを気をつけないと、人は誤ることになるのではないだろうか。

こういう感動ペースに巻き込むことで諸々誤魔化そうとしている人を見ると、そう思わざるを得ない。

一方、その難しさを見越してか、このような言葉を発する人間もいる。

テンションが上がることに賛成しないことで苦しむ人を『可哀想』と言ったり、賛成しない人たちを全否定するような人たちに、呆れる。

同じ体験をする、同じ感情を抱く、そういうものは日本人の誇りという表現もされるような、『仲間意識』を強化していくものであろう。

この『仲間意識』が『同じ感情を抱かないものを排除する』『同じ体験をしていないものを排除する』ものであるということを思い出すオリンピック開会式であった。

一方、感動や美という印象のポジティブネガティブと賛否の観点のポジティブネガティブが噛み合わない難しさ・矛盾について『オタクは与えられた事項を全力で楽しむだけなんですよ。アレはアレ、コレはコレ、ソレはソレという判断できるのがオタク。』みたいなオタク選民思想というか、そういう難しさの軽視みたいなものも見かけた。いつものやつ、なのだろうが、オタクはもっと一般的なものではないのだろうか?

あと、朝敵とか言い出してる人はなんなんだろう…

(オマケ1)政党と仲間意識

ちなみに、政治家と支持者の絆や、政党の支持者同士の絆も、そのような感じで強まることがある。選挙活動で同じ体験をして、演説で同じ感情を抱き…という。

以下の音喜多氏周りの話も、積極的に活動することにより、そういう仲間意識が着実に積み上がっている的な話とも言えるだろうと思う。

よそから見たイメージとして、(そういうイメージを作る戦略かもしれないが)維新は良くも悪くも仲間意識が強い政党というイメージがある。不祥事を起こしても党を批判しなければしれっと戻っている一方、批判し始めるとあっさり排除されるイメージがある。

音喜多駿氏周りもそういう維新的な仲間意識が現れているということなのだろうし、そういう仲間意識が『組織』が出来上がるためには重要なピースになるのだと思う。

(オマケ2)オリンピック周辺で色々気になること

帰国した以上は何もできないのだろうが、どうか無事な人生を送って欲しい。

嫌なら帰れとか嫌なら出ていけとか、左翼メディアを黙らせろとか、オリンピックに左翼臭だとか色々と述べてる人たちがいた。

突然のキャンセルに納得できず、広告会社の担当者に理由を尋ねると、次のような趣旨の説明があったという。

「開会式の内容を確認した大会組織委側が、『なぜここにアフリカ人が?となる。そしたら他の国籍も入れないといけないという話になる』と指摘した。そしてラティールさんらセネガル人2人の出演をキャンセルするよう求めてきた」

五輪開会式、出演消えたアフリカ人アーティスト 「人種が理由としか…」消えない疑問

このようなラティールさんへの事例に限らず、今回のオリンピックはドタバタ過ぎて報告・連絡・相談がめちゃくちゃになっているように思う。

その結果の不満も多いように見えますが、ワクチン関連でも垣間見えるように、オリンピックの当事者である、現政権や現都政、現組織委員会関係者はそこがとくに苦手そうなので、現在の日本の問題点が露骨に見えているのかもしれない。

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