「自助・共助・公助」によって社会が遠くなる

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日常と社会課題の距離について、改善が必要なのではないか、というような内容コラム?を読みました。

危機的な状況に陥ったことのない人達にとって、もしかしたら「社会」という存在は、どこかぼんやりとした、実態のないものと受け止められているかもしれない、そんな風に感じることもあります。そして、さまざまな社会課題解決に取り組むNPO職員の方、福祉に携わる方々とっては、ほかでもないこの点が、活動の推進を阻む、ひとつの大きな悩みの種となっているようです。

元気なときには見えにくい「社会」 社会課題に必要な支援とはなにか

自分が社会の中で生きているという自覚を持っていなければ、当然、社会課題が自分に直接関係のあることという意識を持つことも難しくなってしまいます。

元気なときには見えにくい「社会」 社会課題に必要な支援とはなにか

特に、行政の用意している福祉サービスについては、せっかく用意されていても、その存在が全く知られていない、使われていない、というものが各地に数多くあるように思います。せっかく意を決して社会へと救いの手を伸ばした人が、スムーズに必要な支援を受けられるように。ぜひ、本当に必要な人の目の届くところに、サービスへの入り口を設置しておいてほしいと思います。

将来、もしそんな風に、個人とNPO、あるいは個人と行政のサービス等がより短距離で繋がれるようになった際には、きっと、今のように手痛いドロップアウトを経験せずとも、多くの人が、社会を身近なものに感じられるのではないかと思います。社会を必要以上に冷たく、意地悪なものと感じたり、怖がったりする人がぐんと減って、困ったときに、身近な人に助けを求めたり、助けを求められたり。そんな風に他者との関係ももう少し気楽なものになると思います。そして私は、それでいいと思うんです。今のように、社会のなかで北風を強く吹きあって、人々がどんどん頑なになるのでなく、太陽の光でゆっくりと温めて、自ら進んで上着を脱がせてしまう。そんな、おおらかな社会が実現すれば、どんなに素晴らしいだろうと思うのです。

元気なときには見えにくい「社会」 社会課題に必要な支援とはなにか

自分が社会の中で生きているという自覚、とか、個人と行政のサービス等の距離を近づけると言う話。

こういう話を読むと、今の私はどうしても「自助・共助・公助」が頭に浮かんでしまいます。

前回の記事でも「自助・共助・公助」の概念は、セーフティーネットを使わせないように機能している、というような内容を書いたのですが、この社会や行政と「自分」の距離を離すのも、「自助・共助・公助」の狙いの一つのように見えるのです。

菅首相も「まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」としています。これは、一見セーフティーネットを否定していないように見えますが、結局は「自分でできること」と「家族」の領域をどこまでも拡大することで、セーフティーネットは用意はされているが利用できない状態にしてしまうことにより、事実上の公助否定、子どもを社会で育てることができない状態が出来上がります。

子育ての負担も少子化の原因も子供を育てる人たちに押し付ける社会(というか与党) – 興味乱舞に引きこもれず

「自助・共助・公助」という概念を強調することで、自助できる人ばかりが優遇され、共助や公助という手段が軽視され、行政に頼るための距離が遠くなり、そもそも存在しているのか、存在していてもどういうものなのか見えなくなってしまう。
見えなくなることで容易に根拠なき不信や、実態無き特権説などが広がり、より距離は遠くなっていく。
前総理の「頑張った人が報われる社会へ」「再チャレンジ社会」みたいなはなしも、要するにそういう話のように私には見えます。
結局、再チャレンジの資格も、誰かから「あなたは失敗するまでは自助努力で頑張っていたので再チャレンジできます」みたいな許可制になってしまって、その結果「努力してない奴が生活が苦しいと言っている」みたいな話をし始める社会が形成されてしまうのではないでしょうか。

頑張った人、汗を流した人、一生懸命切磋琢磨し知恵を出した人が報われる社会をつくっていきたいと考えております。公正でフェアな競争の中で生れてくる活力が日本の経済と国の力を押し上げていきます。しかし、人間ですから失敗をすることもあります。一回失敗したことが人生を決めてはならないと思います。負け組、勝ち組として固定化されてはならない。何度でも人生のいろんな節目にチャンスのある社会をつくっていかなければいけません。

 単線的な人生から、多様な機会のある、そしてまた多様な価値を求めることができる複線的な人生が可能な社会に変えていきたいと思います。そのために、再チャレンジ推進施策をしっかりと実行してまいります。

安倍内閣総理大臣記者会見平成18年9月26日

私が何故、数ある課題のうち経済の再生に最もこだわるのか。それは、長引くデフレや円高が、「頑張る人は報われる」という社会の信頼の基盤を根底から揺るがしていると考えるからです。

平成25年1月28日 第百八十三回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説 | 平成25年 | 施政方針/所信表明 | 記者会見 | 首相官邸ホームページ

そもそも「公正でフェアな競争」に参加すらできない人たち、再チャレンジどころかチャレンジすらできない人はどうすればいいのか、というのが「自助をしないと死ぬよ」「まず自分でできることからやらないと」みたいな一言で誤魔化されてしまう、透明化されてしまうのが「自助・共助・公助」なのだろうと思います。
そして、それはCOVID-19の対策でも一部の専門家?によって機能しているようです。

見事に公助を見ずに、自助と共助を見ろという内容です。

この方は、3月末には「それが危険なことわからんやつは、とっとと感染しちまえ。」なんてツイートをしていたのですが、ずっと「因果応報」「自己責任」の範囲に全てを押し込めようとしていることが一貫しているように私には見えます。

なぜこのような言動になるのかというと、少なくとも宮沢氏は「努力が足りないから感染が拡大している」という認識、コスト軽視というかリスク軽視というか、そういう視線が背景にあるように思います。

そう話す宮沢氏が指摘するのが、「リスクを正確に計算する」ということだ。

 新型コロナウイルスによる死者数(25日0時時点)は100万人あたり9.5人と、熱中症(2018年)の12.5人、インフルエンザ(2019年)の28.3人、交通事故(2019年)の34.0人となっている(出典:総務省統計局、厚労省)。

 「確かに1000人以上の方が亡くなっていることは大きいが、全体を見ればリスクは低いということだ。例えばお風呂の中で大勢の人が亡くなったからといって、“お風呂止めますか?”という話にはならないと思う。

“アンチGo To キャンペーン”はやめてほしい、BSEや新型インフルを繰り返してはいけない…宮沢孝幸・京大准教授が訴え(ABEMA TIMES) – Yahoo!ニュース

このような比較は原発と自動車の比較などでも出てくるが、正直いい加減にしてほしい。

新型コロナや原発の場合、どこまで被害が起こるのか、どうやって被害が起こるのか、どうやったら被害が防げるのか、と言うデータが比較対象よりたいてい少ないと言えるはずです。

例えば、新型コロナの場合、感染防止策は自助の視野では明確だとしても、社会は自分だけで成り立っていないという前提に立てば、集団として人の動きをどう調整するかなど、いろんな論点があるはずですし、まだ感染が終わっていない以上、現在の死者数で、過去のなんらかと比較するのは時期尚早であると言えるのではないでしょうか?

それをさっさと比較してリスクを低いと言いたがるのは、何らかの辻褄を合わせるためにわざとやっているのではないかと私は思ってしまうのですが、少なくともそうやってリスクを軽視することが「自助・共助・公助」の枠組みを当てはめることと組み合わせることで、公助の出番ではない、重要なのは自助と共助だ、という公助軽視、自助重視の姿勢が出来上がっているように私には見えます。

最初の話に戻すと、「自分が社会の中で生きているという自覚を持つ」みたいな話は、こういう自分もまきこまれることになった課題の時にきちんと自助努力以外の助けがあると実感できる状態になっていることが非常に重要なのではないかと思うのです。

己が困ったときに助けてくれない社会の中で生きているなんて自覚をされてしまったら、そういう人たちは自己責任が当たり前だろとしか思わなくなってしまうでしょうし、「なんで俺は助けてもらえなかったのに、あいつは助けてもらえているんだ?不正?」という考え方もしてしまうでしょうし。

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