過激化していくリプ戦争の真ん中で

この記事のアクセス数
29PV
この記事は約9分で読めます。
記事内にアフィリエイトリンク等の広告が含まれています。

このTweetについて、双方矢を放ってるはずなのに、リプライを見ると片方だけ刺さってるかのようなリプライばかりで、地獄だなって思ったのと、そもそも刺さり方が“的確”かどうかとかは別として。

(絵の陣営の色が赤と青なのは、場合によってはフェミを「アカが」と批判する人間がいる以上、そういうメッセージになってしまう可能性があるのですが、そういう事なのかどうか…)

このように、とある的向けて弓矢を放つという行為は、戦争なんて状態ではなくても、言葉の屋というのは、そもそも弓矢を放つべきでなかったり、狙ってた的に弓矢がたどり着く前に他の的が存在していることに気づかなかったりするもので。(敢えて他の的ごと撃ち抜くパターンもある)

ここからは濃い自分語りになるんですが、mixi→ニコニコ動画→2ちゃんねる→Twitterと利用していた私は、最初は青陣営に近いことを言っていたように思います。(ナチュラルセクハラといいますか…)

どちらもかわらないと思うのですが、どの方面に無神経だったかというと、当時は女性とかの属性の方に疎かったように思います。

また、与党民主党を批判する勢いで、背景にある思想とされていたものなどまでバッシングしてしまっていたり、国家という枠組みについて盲信することによる盲言や他国バッシング、知識の偏りからくる思い込みなど、とても酷いネトウヨ的Tweetもしてしまっていました。

そんな中、震災が起き、放射能に関して恐怖を抱く方に対して揶揄するようになり、そのことに対して、とある方に咎められたことがありました。

それを機に、改めて自分の言動に関して後悔し、これまで傷つけた方々がいるであろうことを念頭に置くようになりました。

また、これまで私が国家などに抱いていたものは、おおむね幻想だということも。(小林よしのりを鵜呑みにし過ぎました。)

ここから、私のポジションは青よりも赤陣営に近いものになっていきました。

そんな中思うことは、どちらも弓矢は狙った的以外に当たるのですが、当たるときの弓を放った人間の認識が違う気がするんです。

青陣営は主語がでかくなるというか、あれはああいう集団だとして無関係な人間を自ら巻き込むことが多いというか。そもそも視野の中の人間しか意識しない動きが多いように思います。

一方、赤陣営は、信念に基づいて、見えていても「逃げられるだろう」と判断して、諸共撃ち抜くことが多いというか。自分の正しさを信じているからこそ巻き込んでいくというか。

これは自分だけの感覚なのかもしれないですが。今現在、赤陣営に近い位置になっているであろう人間として、この的の前に人がいる感覚を覚えた出来事がいくつかあって。

例えば、AV業界の問題、特に事務所やメーカーの問題を指摘したと思ったら、別な論点も混ざってきて、現場の女優さんが反発するとか。

あと、最近こういう構造になるよなと思ったのは、AKBや坂道などの秋元康の問題。それについて、ロマン優光氏が以下のような文を書いていて、そういう構造あるよな、と思ったのです。

平手さんを中心にした欅坂46のあり方というのは、非常に歪な雰囲気を感じていた。大人に対する不信感、社会に関する違和感、孤独感を感じるようなタイプの女の子に、そういったテーマの歌詞を歌わす。彼女がいっそう、その不信感や孤独感をつのらせていくような環境において、それをやらしていくというのやり方には、怖さを感じていた。そういう資質の子を、そういう気持ちにさせる環境にさらして、そういうテーマの歌を歌わせれば、それは真に迫ったものになるだろう。テレビで見てすら感じる、異様な切迫感を感じずにはいられなかった。それは確かにかっこよかったのである。

 アイドルに興味がない、あるいはアイドルを嫌いな層にしてみれば、平手さんのパフォーマンスする、反抗や孤独の歌など、業界人が金のためにやらせてる茶番にしか思えないだろう。しかし、それがどんな目的のために書かれた歌詞であろうと、そのテーマを本気でとらえて本気で演じれば、本物になる。もっとも卑俗な部分に真実がやどってしまう。演者が本気でやれば、受け手にもその本気が伝わる。外野がなんといおうと、本気で信じる演者がいて、本気で信じる受け手がいれば、その歌のメッセージは真実として機能する。平手さんはそういう力を持っていたと思う。少なくとも映像の中では。

 身を削るような表現は人の心をとらえる。平手さんのやっていたことはそういうたぐいのことだ。だから、彼女は多くの人の心をとらえた。ただ、それを本人が表現として自発的に選びとったというよりは、周りの環境がそういう風にしていったのではないかという感じが拭えない。それはどこまで意図的に行われたのかはわからない。なんにしろ不自然な感じがして、彼女のパフォーマンスが素晴らしくても、なんとなく敬遠したいような気分があった。自分自身を追い込んで生まれるような表現、切迫した気持ちの中から生まれるような表現は、それを自発的に内的な必然性が本人にあって行われるぶんには別にかまわない。しかし、そういうある意味危険を伴う表現を他人にやらす、しかも10代の少女にやらせているように見えることにツラさを感じていたからだ。

 単に大人にやらされているのではなく、やらされている環境の中で、自分の意思で何かを自発的にやろうとするアイドルはその人らしさが見えて、自分は好きだ。周囲の環境や理不尽に対して自分の頭で考え、自分の意思で動くようなアイドルが好きなわけだが、それは活動していく中で偶発的に生まれてくるものだと思う。それが欅坂46の場合は、そういった部分すら最初から織り込み済みで、ビジネス的に回収されるのが最初から決まっているようなやり方をしているように感じていた。アイドルの魅力の一つに「やらされている感」があるというのは、よく言われることだが、それが本来アイドル自身の中から自発的に生まれてくるような部分までコントロールしようとしているような、心の領域に踏み込んでしまっているような変さを感じていたのだ。黒い羊をわざわざ作ろうとするのは違うだろうと思った。

平手友梨奈というアイドル:ロマン優光連載153 – ブッチNEWS(ブッチニュース)

このような構造って、最初に仕掛けているのは背景にいる人たちで、そこに悪意が見え隠れしているわけですけど、そこを狙って弓を射るとどうなるかというと、自発的にその構造に乗っている人たちを巻き込んでしまうどころか、自発的に乗った人だけ損をして、背景の構造作成者は無傷だったりするわけで。

こういう構造、女性が絡む話が私の経験としては多いのですが、原発周りもそうですね。

そういう構造を考えると、どうしても軟着陸させないといけないわけですが、そういう理不尽さに耐えられるほど我々人間は強くないのです・・・。

ここで話を戻しますが、同じ「正義の暴走」や「巻き込み事故」の部類でも、こういう原因の違いが陣営によって多数あるように思います。(あくまでも割合の感覚の話であって、どちらにもこういう例は一定あるとは思うのですが)

で、こういうのが難しいのは、主体的に動いているとは誰も思っていないことなんだろう、と。

過去の経験、過去の歴史、社会常識とか、目の前にあるものより前に、背後にあるものが先にあって、それを見ている、という感じがします。

それを考慮すると、歴史、というより記憶という方が正確でしょうか、記憶が積み上がるほど、どんどん反応は過激化していくわけで、実際現状そういう方向に行ってますよね。これはTwitterだけではなく、人間世界全体における法則みたいなものだと思うんですけど。(現行の与野党とかね・・・)

その上で、インターネットって、とても過激化の方向に機能しているように思って。

例えば、記憶の蓄積、という点でいうと、インターネットはあらゆる人が情報にアクセスできる可能性を持っている。要するに今起きている小さい出来事を見る人が昔より多くなります。

そして、インターネットで起きた出来事はログ化します。人の記憶力よりは多くのものがインターネットの海に「記憶」されていきます。

ということで、インターネットによって、昔より人の記憶は拡張されているように思われます。

昔は、マスメディア以外の情報源が少なく、今よりも、選別された大きな出来事に意識が集中していたように見えるのですが、今では小さい出来事でも積み上がるようになっているように。

そして、Twitterやヤフコメなど、誰しもがコメントする機能が出来上がったことにより、小さい声が可視化されやすくなりました。

昔はそういう声はわざわざ調査するなどして、誰かがまとめないと、噂話として形にならないような状態で漂流するばかりだったと思うのですが、それが各々が意識しなくても集団化してしまうようになった。

その結果、多分、これまでより電話で直接言う行為みたいなのの威力が格段に上がってるんですよね。『俺の背景にはこれだけの民意がある!』的な。

これは電話してる本人が狙っているかどうかは場合によるのでしょうが、抗議をされた際に、そういう機能を担ってしまうことで、TwitterでTweetしてる本人は『えぇ…』とか、ちょっと引いたぐらいで、抗議につなげる気がない反応が、いつの間にかクレームに巻き込まれ、クレーマーやテロリストと呼ばれるような構造に巻き込まれる。

Twitterだと、そういうことに関して〇〇一派、みたいな書き方をする人がいますが、ちょっとTwitterに書いただけで、そこにどんどん巻き込まれていく。

You Tubeのレコメンドとか、インターネット広告のように、一つ踏んだらどんどんそっちに流されていく、みたいな。

そういう『まとめられていく』動きが、インターネットの機能なのか、人間の把握力の限界が原因なのかはわかりませんが、起こっているように見えます。

そこから降りましょう、なんて言うことはかんたんなのですが、一度そういうことが加速してしまうと、何が起こるかというと、どんどん降りれなくなるんですよね。

『ここで降りてしまうと、あの人たちが席巻してしまうのではないか・・・』とか思うようになってしまうんですよね。謎の対立構造の土俵にまんまと乗っかってしまうというか。

みんなで一斉に降りないと、粘ったもの勝ちするように見えるんですよね。(実態はどうかわかりませんが)

人はこれまで費やしたお金や時間を過大視するといいますが、それと敵については過大に見積もってしまう、みたいな話が合併してるというか。

新社会人のための行動経済学(3) サンクコストの落とし穴 - 冷静な判断をするには?
今まで費やしてきたことに目を向けることで、意思決定に支障をきたすことを行動経済学上は、「コンコルド効果」といいます。サンクコストとは埋没した費用という意味で、既に投下してしまったお金や時間を過大視するあまり冷静な意思決定ができないことを意味します。

なんで、みんなで一斉に降りるみたいな話が必要なんだと思うんですけど、いろいろな思惑でできないわけです。

上に書いた、軟着陸もそうなんですけど、軟着陸させようにも、どうしても人には抵抗力があるというか、ゆるい動きだとなかなか動かないじゃないですか。

動かないどころか、一番動けない人が、一番問題だったりするわけで。

そう考えると、本当にこういう問題は難しいと思うんですけど、一人の人間としては過激化していくのをただただ見て巻き込まれていくことしかできず・・・。

ほんとどうしたらいいんでしょうね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました