批判者だけが良識を持っても駆逐されていくだけではないか

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刺激的な言葉とそれに対する批判、謝罪が繰り返されている昨今の状況を、編集者で文芸評論家の仲俣暁生さんは危惧しているという。「ポストの記事は全く肯定できないが、少なくとも犯罪や法で規制されるヘイト(憎悪表現)ではないだろう。韓国や在日コリアンへの攻撃を誘発するものかどうかは慎重に判断したい。だが実際には、記事を読むことなく批判している人が多いと感じる。記事や見出し、発言などのうち、具体的にどの表現がなぜいけないのか。一つ一つの論点を丁寧に議論するべきなのではないか」という。


 仲俣さんは「あおったりたたいたりが繰り返されるうちに、多様な考えを社会全体でゆるやかに共有する議論の基盤自体を掘り崩されてしまいかねない。確信犯的なヘイトに火をつけてしまう可能性もある」と指摘。「ふわっとしたヘイトをふわっと批判し、ふわっと謝罪するだけでは根本的な状況は変えられないだろう。互いに丁寧な言葉のやりとりと論理の積み重ねが欠かせない。批判と謝罪のサイクルをスローダウンさせては」と提案する。

週刊ポスト謝罪、抜け落ちる議論 「断韓」特集に作家は:朝日新聞デジタル

これから彫り崩される可能性のある『多様な考えを社会全体でゆるやかに共有する議論の基盤』なんてどこにあったのだろう?というのが率直な感想なのだが、あったのでしょう、という前提で話を進める。

過去には『多様な考えを社会全体でゆるやかに共有する議論の基盤』があったようだが、それは、以下のような流れでどんどんとなくなっていく。

ウェブサイト、ブログ、掲示板、SNS、これらが順番にどんどんと普及して、発信の難易度はどんどん低く、発信のスピードはどんどん早くなっていく。

そして人が情報を目にする難易度も低いものが爆発的に増えて、容易に雑誌の記事に触れられるようになる。

発信の容易さと閲覧の容易さが同時に高まる結果、反応の容易さが生まれ、それと同時にインターネットの機能により反応の受容の容易さが生まれた。

その結果がこの発信→批判→謝罪のスピード感に出ている。

また、そのスピードに適応した雑誌側が、記事が埋没していくのに対抗するために、中身が穏便・穏健なものであっても、タイトルを煽って存在感を高める術を身に着けて、タイトルが煽られる記事が量産されていく。(近頃、「タイトルは編集がつけるので記事の著者に言われても困る」的な釈明を多くみるように思うが、そういうことなのだろうと思う。)

タイトルでのみ煽って記事の中身は穏健という例のようなリスク回避しつつ煽ってpv稼ぎという手法は、ある程度存在感を持ち記事を展開するメディアでは、酷さの強弱はあるが、普遍的に見られるように思う。そう考えると、記事の価値のつけられ方もスピードに合わせて変わっているのだと思う。

こういうものが、今回の週刊ポストのような問題を生み出しているわけで、単に『批判と謝罪』の部分だけクローズアップして『スローダウン』を訴えても、無理難題だとしか言いようがないだろう。

そもそも批判だけでなく、発信・受容・反応というプロセス全体のスピードが加速していて、その中で批判と謝罪だけを減速しても、発生するのは、批判や謝罪がまだなされていないことにより、賛同意見と類似意見のみが存在してしまうことではなかろうか。

そのような構造全体の問題を無視して『一つ一つの論点を丁寧に議論』『ゆるやかに共有する議論』『丁寧な言葉のやりとりと論理の積み重ね』を目指しても、そこで発生するのは、まさに仲俣暁生さんが危惧している容易な発信が慎重な発信の存在を駆逐していく事態が別なフェイズで起きるだけではないだろうか。

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