会見では、安田さんが拘束された3年4カ月の状況や解放の経緯を説明後、質疑応答に移った。進行役が代表質問として、自身への批判に対する見解を尋ねた。
これについて安田さんは、「何があったのかという事も含めて、みなさまに批判や検証いただくのは当然だと思っております」と受け入れた。一方で、誤った情報が流布している点に触れ、「あくまでも事実に基づいたものでやって(批判、検証)いただきたい」と求めた。
自己責任論についても「紛争地という場所に行く以上は、当然、自己責任と考えています」と受け入れた。その上で、次のような反省の言葉を口にした。
「日本政府が退避勧告を出している紛争地にあえて入っていく以上、相応の準備をし、何か起きた場合は自分で引き受ける態勢と、心の準備をして入るものだと思います。そういった中で自分の身に起こることに対しては、はっきり言って自業自得だと考えています」
安田さんは一方で、個人の自己責任と、政府がどう対応するかは別物だとして、「本人がどういう人かよって行政の対応が変わるとなると、民主主義国家として重大な問題です」と述べた。
政府の対応については、「やるべきことをやっていただいた。紛争地で人質になった邦人の救出や情報収集は難しい中で、可能な限りの努力を3年4カ月続けていただいたと解釈しています」と感謝した。
安田純平さん「自己責任であり、自業自得」帰国会見で語る
この記者会見での発言、当事者が語る内容としては完璧というように私には思えました。
その一方で、やはりこのような『自己責任』というものは、言葉通り『自己』で感じるべきものであって、原則他者が言及すべきものではないよな、と思うわけです。
今回の安田純平氏の件を受けて、プチ鹿島氏がイラク戦争当時の自己責任論について改めて調べている記事がありました。
この記事を読むと、自己責任論の典型というものが、どういうものか把握できると思います。
で、それを踏まえて、私は『自己責任論』というのは色々装飾されたカッコつけ過ぎな用語であって、根っこにあるのは「馬鹿じゃないの論」だと思うんです。
「馬鹿じゃないの」という感覚を語る際に、「馬鹿に金を使いたくない」という感覚が加わって、自己責任論のようになっていくのだろうと思うのです。
また、国家は国民に「ご恩」を与えていて、国民はそれに「(国家が望む)奉公」で答えねばならないというような考えも含まれているように思います。
(これは権利と義務という言葉に入れ替えてもいいと思います)
それを証明するわけではありませんが今回の安田純平氏にも恩知らずという批判が飛びました
こういう批判を見て改めて思うのは、責任を問う形の言説の強さです。
私は、今回安田純平氏を批判してる人は、政権の責任を問う声に対し「対案を出せ」とか「批判ばかりで無責任だ」という反論を行っている方々だと(そういう主張を拡散しているサイトがそういうサイトばかりなので…)勝手に思っているんですけど、そういうのって、他者の責任を問う言説が(必要以上に)強いと思っているからこそ出てくるんだと思うんです。
その上で、私はそういう強い言説について、個人に向けるのは組織相手以上に慎重にならないといけないのでは?と思うわけです。
組織というものは、集団であって、集団というものは、責任の分散化やら存続の自己目的化など様々な強い作用が働くもので、それに対して集団の外部から指摘を加えるの言うのは、逆効果になる可能性はあれど一定の必要性はあると思うんです。
で、ここで注目すべきなのは、なぜ「責任を問う声」が強い言説になるかというと、それも結局は集団化していくからだと思うのです。
要するにたいてい自己責任論というのは、集団が個人に責任を問うという形が(意図しなくても)作られてしまうわけです。で、そうなると集団のほうが圧倒的に強くなって個人を潰す形になるわけです。
(政府批判に対して「安倍総理は孤独に頑張っているのに」や「メディアのリンチが酷い」みたいな言説が対抗として出てくることがそれを物語っているかと)
その一方で、これも責任を問う声に対して対抗言説としてよく言われる声ですが、やはり「各々の事情がある」わけで、(自己)責任論の全般は、それを集団の勢いで無視する傾向があるのは事実だと思います。
だから「対案を出せ」などが対抗言説として出されるのでしょう。
この個々の事情を無視して押し付けがちという傾向は、集団相手であれば対抗措置が出来るものの、個人相手だと一方的に押しつぶされるしかなくなる可能性が高いわけです。
異論を唱える個人を排斥するという傾向が集団にはあるわけですから。
そう考えると、やはり特定集団への組織責任論を慎重に行うべきという主張の延長線上には個人への自己責任論は更に慎重に行うべきという主張が存在してしかるべきだと思うんです。
そういうことを踏まえずに自己責任論を持ち出してしまうと、その延長線上にはどうしてもあらゆる対象への組織責任論が嵐のように吹き荒れる社会が実現してしまうのは仕方がないのではないでしょうか?
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