麻生太郎と“常識”

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麻生太郎副総理兼財務相は23日、東京都内で開かれた自民党麻生派の河野太郎外相のパーティーで、「(河野氏が)政治家として今後伸びるのに何が欠けているかと言えば、間違いなく一般的な常識だ」と語った。財務省の一連の不祥事などで失言も多い麻生氏だけに、党内から「麻生氏には言われたくない」と失笑も漏れた。

麻生太郎氏:河野外相に「常識を磨かないといかん」 – 毎日新聞 

麻生太郎副総理兼財務相は23日夜、麻生派に所属する河野太郎外相のパーティーに出席し「政治家として伸びていくために一般常識を磨かなければいけない。学生時代も勤めた会社も海外だから、発想が欧米的だ」と将来を見据えてアドバイスした。

麻生氏「飲め食え常識磨け」将来担う河野外相に助言

麻生太郎氏が、河野太郎氏に「常識を磨かないと」と言ったその日、まさに麻生太郎氏にとっての“常識”を大臣会見にて披露しています。

 麻生氏は「おれは78歳で病院の世話になったことはほとんどない」とした上で「『自分で飲み倒して、運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしい、やってられん』と言った先輩がいた。いいこと言うなと思って聞いていた」と話した。記者から麻生氏も同じ考えかと重ねて問われると「生まれつきもあるので、一概に言うのは簡単な話ではない」と説明。予防医療の推進自体は「望ましい」とも語った。

不摂生な人の医療費負担「あほらしい」に麻生氏が同調:朝日新聞デジタル 

私はこれを「良いこと言うな」と思うのが、ちょっとよくわからないんですけど、少なくともこの先輩の発言というものを麻生太郎氏は“常識”として話していると思うんです。

そして予防医療とか、そういう社会保障制度はこういう常識にそって設計すべきだと言いたいんでしょう。
(麻生太郎氏が財務大臣として発言していることも注目に値するでしょう)

麻生太郎氏は、森友学園問題やセクハラ問題でもそうでしたが、こういう個人の意見とかを「常識」というものに仕立て上げて、記者や議員という質問相手にぶつける手法を取ることが多いです。

それが実際に常識かどうかは別として、本人はアウトサイダーではなく、常識ど真ん中と思い込んで突っ込んでくるわけです。

そうすると、支持者は「そうだ!」と言いやすくなり、批判者はいちいち「常識ではない」というところから反証してしまうのです。
(実際は常識だから「正しいことが確定する」わけではないので、常識であるかどうかは誤りの立証には不要だったりする事が多い)

つまりアウトサイダーとして発言するよりも、常識と言い張る方が相手の反証の手間を増やせて、結果として、反証内容のツッコミどころを増やせるわけです。

このような前提を踏まえると、個人的には、麻生太郎氏の「常識を磨かないと」というのは、常識を正確に捕らえろというよりは、「常識と思い込む力、常識と思い込ませる力を鍛えろ」という意味に聞こえます。

そして、これにつながるのが、日刊スポーツや産経新聞が報じている『もっといろんな人と飲み食いしろ』ということだと思います。

麻生氏は最近、仲間との宴席を共にする大切さを河野氏に伝えているとし、集まった支援者らに「これがないと政治家として成長しない。そうした感性、付き合い方を河野太郎に教えていただき、政治家としてさらに大きく成長させてほしい」と呼びかけた。

河野太郎外相は「常識に欠けている」 “麻生節”でエール


たとえ自分の考えでも他人が言っていたことをそうだと思ったという形で披露するなど、できるだけ他人を巻き込む形で披露するのが「日本流の常識」だということが背景にあるのだと私はこれを解釈します。

ちなみに、『自分で飲み倒して、運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしい、やってられん』という考え方については、先日、江川紹子氏が岩波ジュニア新書『生きづらい明治社会・不安と競争の時代』を読んだ感想として、そのような“通俗道徳”が明治時代から存在し続けているのではないかということを述べています。
(通俗道徳というのは常識的な道徳と言い換えることができるように思います)

明治150年・あの時代から続く「通俗道徳の罠」を考える~『生きづらい明治社会』を読んで(江川紹子) - エキスパート - Yahoo!ニュース
150年前の今日、元号が「慶応」から「明治」に改められた。 ということで、政府が明治維新150年を祝う式典を開いた。その趣旨は「明治以降のわが国の歩みを振り返り、未来を切り開く契機としたい」(菅官房

この明治時代には、このブログで批判的に取り上げた西国立志編が発売されて、大きな反響が有ったということも注目に値するでしょう。

これらのことからも、「納得できる言い訳がない人間を支援したくない」という気持ちが(少なくとも一部の人には)常識として存在しているのだろうとおもいます。

しかし、その常識に沿っていくことにより、どのような結果をもたらすかについては、江川紹子氏が紹介している書籍のように、きちんと考える必要があるでしょう。

それを踏まえて考えると、予防医療推進が、「予防医療があるのになぜ病気になるんだ」「予防医療を受けなかったくせに、重病化してから高額の治療をうけるなんて」というような、『予防医療を受けなかった人間や、予防しきれなかった人間の言い訳を問答無用で切り捨てる仕組み』の推進に繋がりそうだ、と私は思うのです。

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