解散権の行使を批判しても『しょうがない』のか?

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負け犬の遠吠え、という単語がタイトルに選ばれていますが、個人的にはそこよりも『批判してもしょうがない』という点が気になります。

松井一郎氏は『だからこそ総理に解散権がある』としていますが(だからこそ、の意味がわからないです)、与党が有利な時期に解散するのは当たり前であり、それを批判するのはおかしい、という趣旨なのだろうと思います。
このように解散権を当然のものとして受け入れて、それを批判するのは無駄である、としているわけですが、この論点は、松井一郎氏が代表に就いている日本維新の会が重視している『改憲(統治機構改革)』に大きく関わる可能性のある論点なのです。

改憲の論点2:歯止めなき衆院解散権の是非
衆参両院の憲法審査会の場で、改憲項目の絞り込みが進められる予定だ。今回取り上げるテーマは、「衆院解散権の是非」。実は衆院の7条解散は、いまだ司法判断が下されてない。

この日経ビジネスオンラインの記事にあるように、この『解散権』というのは『7条解散』と言われているのですが、なぜコレが成り立っているのかというと、条文の不備と裁判所が統治行為論で判断を避けていた結果、慣習が成立したのが理由という、非常に消極的な成立であるわけです

衆議院の解散と保利茂:オピニオン:Chuo Online : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ヨミウリ・オンライン(読売新聞)内のコーナー「教育×Chuo Online」です。

そして、それを受けて、過去に解散権にきちんとした根拠を与えようとしていた動きがあったわけです。
このように、改憲を行う場合、この7条解散について、慣習法のまま何でもあり状態で放置するのか、成文法に落とし込むのかというのは明確な論点になり得ると思います。
特に、一院制や首相公選制という、統治機構の形が変化する場合、解散権のあり方もその統治機構の形とバランスをとらないといけない、と考えるのは当然だとおもいますから、改憲時には解散権の議論は欠かせないものだと思います。
要するに、統治機構改革を唱える維新や、一院制の主張が参加条件になるという細野・若狭新党は特に、解散権の議論は避けられないと思うのです。(実際、すべての勢力が避けられない議論ではあるのですが。)

そのような政治勢力の代表が解散権について『批判してもしょうがない』と述べているのは、統治機構改革の実行力について一定の疑問視をするのに充分な言動であるように、私は思います。
『批判してもしょうがない』というのは、みずからを現実的な人間だとするアピールも兼ねているのだろうと思いますが、『批判したところで(変わらないから)しょうがない』と言ってしまうより、『それでも言わないといけない』という執念の強さのほうが、個人的には政治家に必要な資質であろうと思います。
(そういう執念を見せるような問題ではないと考えているだけならば、そもそもその考えがおかしいと私は思います。本来、議論が避けられない分野を『しょうがない』と言っているわけですから。)

「政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。……どんな事態に陥っても、『それでもわたしはやる』と断言できる人、そのような人だけが政治への『天職』をそなえているのです」

職業としての政治 職業としての学問 マックス・ウェーバー著/中山元訳 ~物事の本質を大きく捉え直すことの大切さを教える | 読書 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

また、そうでなくても解散権が慣習により成立しているような状態である以上、その慣習について疑義を呈する事自体に、一定の意味があると思われます。
ただし、選挙時以外の言動にもつなげて、更に落とし所をキチンと作らないと、選挙のときだけ主張される、それこそ『負け犬の遠吠え』とレッテルを貼られてしまう可能性もあるのですが。

ちなみに、現在民進党の代表代行を務める枝野幸男氏は、今年4月の文藝春秋でのインタビューにて、解散権制限について検討すべきと述べており、細野氏も自身の改憲案にて言及しているので、この解散権の強力さについて問題視していない勢力は、これまで解散権を政局などに利用し続けてきた現在の与党周辺のみのような気がしています。

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