切り捨て報道に対する不快感

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昨年に私の実家の近辺で起きた児童遺棄事件(「自宅で産んだ、頭真っ白に」…生後間もない女児を路上に放置した24歳女を逮捕(1/2ページ) – 産経ニュース)についてどうしても気になってしまい、色々調べる。

そうすると出てくるのが産経新聞の報道だ。あの新聞は話題の事件に関する裁判記録記事みたいなものが比較的多くて、そこだけは評価している。
(記事内容が週刊誌のような下衆さを伴っていることが非常に気になるが、多分そういう情報を得たがっている私にもそういう気質があるということなのだろう。産経新聞が下衆いのは言うまでもないが。)

ただし、少々気になっている事が、詳細を報道する記事にいちいち事件と読者を突き放す表現が入っていることだ。産経新聞の対象としている読者がそういう記述を好む層なのだろうが、個人的にこういう記述があるのは色々な意味で害のある刷り込みを読者にしているように思う。

 

『悪質な犯行の実態が明らかになっている。』

新生児を路上遺棄の母 執行猶予付き判決 裁判官「あなたは母親…忘れないで」(2/2ページ) – 産経ニュース

 

『そんな信じられない行為に及んだ』

『想像を絶するもの』

『まるで人ごとのような態度』

【衝撃事件の核心】トイレで出産した女児を窓から… 24歳の女が明かした呆れた「理由」とは?!(1/4ページ) – 産経ニュース

 

抜き出したように、まるで人ごとのような態度、と被告の態度に対して記述しているのだが、この記述こそが『まるで人ごとのような』記述ではないだろうか。
それ以外の記述も『信じられない』『想像を絶する』などと明確に『人ごとのような』記述だ。

実際は、被告に起こったそれまでの出来事が、被告にとっては『信じられない』『想像を絶する』というような出来事だったのではないか。

そういう『人ごとのよう』に考えないようにすると、この犯罪について『悪質』などという表現は出来ないのではないだろうか。そういう意味では『悪質な犯行』というのも実際は『人ごとのよう』にするための記述なのだ。

 

その関連として、東洋経済オンラインにて『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』という本のレビューを読んだ。

タイトルの通り実子に対し虐待、殺人、死体遺棄などをしてしまった親に関する本だ。

この本のレビュー記事に以下のような記述がある

 

事件が起きた場所も経緯もまったく異なる3つの事件だが、直接手を下した親たちには共通の気質がある。その1つが「極めて強い受動的な対処様式」というものだ。下田市嬰児連続殺害事件を起こした高野愛。彼女は高校2年生の時から10年余りの間に、8人の子供を妊娠している。妊娠した時の相手は様々だが、常に相手の男性に認知や養育費を請求することはなかった。そして中絶しようにも費用がなく、周囲に相談できぬまま出産時期を迎えてしまい、自宅で人知れず出産したことも数回あったという。
(中略)
常人ならありえないと感じるような状況でも、何とかなるという思いだけで全てを受け入れてしまうのだ。彼女の行動の中に、現実と向き合って解決策を練るといった方法は存在しない。
(中略)
さらに「計画性の欠如」という気質も、特徴的なものとしてあげられるだろう。とにかく全ての行為が、その時々の思いつきに起因する。
(中略)
著者は彼らの気質の中に、自らの力ではどうにもならない要因があったのではないかと考え、それぞれの生育環境へも迫っていく。すると親だったり、妻だったり、対象こそ異なれど、彼らの最も近い位置に自己本位の権化のような人物が存在していたことが明らかになる。彼らは自らの人生を自分のコントロール下に置くことすら、出来ていなかったのだ。

もちろん同じような境遇の人たちが、みな最悪の事態に陥るわけでもない。それでも加害者を単なる非道な「鬼畜」として描くのではなく、加害者の被害者的状況にも気持ちを寄り添わせ、背景にある大きな要因を追いかけなければ、見えてこないものがあるのだ。

昨今、社会的な問題として語られることの多い児童虐待だが、センセーショナルに注目を集めるからこそ見落とされがちな罠が、たしかに存在する。報道するマスコミだけでなく、その事件にかかわる多くの関係者が、典型的な事件として処理を進める中にこそ盲点は潜んでいるのだ。刑罰だけで同じような事件の再発が防げるほど、簡単なことではないだろう。著者の筆致から、再び同じような悲劇を繰り返したくないという強い決意が伝わってくることだけが、唯一の救いだ。

わが子を殺害する凄惨事件の背後にあるもの | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

このレビュー記事の記述のように、加害者の被害者的状況にも気持ちを寄り添わせるようにしないと、見えてこず、解決しない物事があるように思うのだ。

そして、このように寄り添わせるような記事を書かないで事件についてセンセーショナルに書く雑誌等が、大抵『アンチ生活保護者』だったりするような私の印象に基づくと、こういう寄り添わない切り捨て報道が切り捨て福祉などを推進している原動力なのではないかと思うのだ。(個人的には、それに加えてサヨク批判にも繋がるような気もする)

そういう意味で、福祉を重視するような姿勢の復活には、加害者の被害者的状況に寄り添うような記事が増えることを願うのが必須なのではないか、と思う私であった。

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