こういう流れで『LGBT施策』と対象を限定するのは違う気がする

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【生きる 働く 第5部】LGBT 自分らしく<1>就職 何度も断られた – 西日本新聞

【生きる 働く 第5部】LGBT 自分らしく<2>公表阻む職場の偏見

今回は西日本新聞の記事を読んでの感想です。この西日本新聞の記事は連載記事であって、このブログを私が書いている時点(2015-05-22)で4記事目まで公開されていました。

この記事を読んで思ったことは『LGBTにとって働きにくい職場は、俺にとっても働きにくいな』ということです。現状私は異性愛者です。LGBTという定義には該当しません。しかし、異性愛者だからといって『アダルトビデオの話題』とか『無理に酒を飲まされる』『男らしくしろと言われる』とか、たまったもんじゃないです。 (余計な話かもしれないですが、〇〇愛者という属性はいつか同性愛者や両性愛者にだってなり得るとも思ってるくらいには私にとっては曖昧模糊とした要素だと思っています。ハッキリと違うのは無か有かぐらいで、性別でくくるのは個人的には少し違和感があります。)

 

要するに、こういう対策って『LGBT施策』と名づけてしまうのは、少し対策として行われるべき内容と題名が違うように思うのです。『LGBT施策』と名づけてしまうと、どうしても『LGBTに含まれる人にだけ考慮すればよくて、そうじゃないとハッキリわかっていれば何の考慮も要らない』という方向で考えてしまうように思うのです。でも、実際そういう対応を取ると、絶対歪みが出てくると思うんです。『あいつらだけ』みたいな妬みとか、『公表しないと考慮されないのか!』みたいな感じで。

そうじゃなくて、こういう問題の解決のために必要なのは、LGBT施策に必要なものは『一般人全般にも実は必要なものである』ときちんと確認を取ることなんじゃないんでしょうか?LGBTも一般人として受け入れられる社会を作ることが施策としての延長線上にはあると私は思っているんですが、それを明確に表すためには『LGBT施策』ではなく『個人尊重施策』が本来の形だと思うんですよ。そういう職場で被害を受けているのはLGBTだけじゃなくて、どんな枠にはめられている人でも被害に合うのが、そういう職場だ、ということを確認することが必要だと思うんです。

 

『LGBT施策』と言われると、まず『LGBTに当てはまる人を男女の枠から外そう』とか『LGBTという枠を新しく組み込もう』というような事を考えることになりそうに思うんですけど、そうじゃなくて『まず目の前の人を男女の枠から外してじっくり見てみよう』みたいな、そういう動きをすることが実際は重要なんじゃないのかな、と思うんです。

そういうことをして、従来の『男らしさ』とか『女らしさ』みたいな枠を疑っていくことで、LGBTに当てはまる方々の『カミングアウト』というもののハードルの高さを低くしたり、現状のように諦める方向ではなく、必要がなくなるという人も中には出てきて、結果、生きやすくなっていく、という感じになっていくのではないか?と思うのです。

 

そういう方向に向かった世界の生きやすさというのは、正直言うと現在生きやすい人にとっては、生きづらいと感じる可能性もあると思います。でも、本人としては生きづらくなっても、周囲に『生きやすくなった人が増える』ことで人間関係が広がりやすくなって、最終的に『本人に周囲の人の生きやすさが帰ってくる』のではないのかな?と私は思います。

ただ、こういう『現状生きやすくて、周囲の人を生きづらくしている人』って、その周囲の人の生きづらさには、大抵、全然気付くことが出来ない人だから、生きやすくなっている、というのが真相なんじゃないかとも思う節も合って、その一方で、現状周囲を気にする生きづらさを十分背負っている人が、もっと生きづらさを背負いだしてしまうのではないか?という諦めに近い認識も私の頭にはあるのですが。

 

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