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権利保護の緊縮削減に反対するブログ

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安田純平氏を通じて天賦人権説を考えた

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安田純平氏が解放されて以降、「安田純平氏を救出すべきだったか議論」がTwitterでは起こっている。

過去の言動を掘り出して安田純平氏に対して自己責任論をぶつ人がたくさんいる。

以下のように。

そういう意見について反論を試みている方も多数いる。その中でも納得したのは以下の意見だ。

これらの諸々を見て、私が思い出すのは生活保護を取り巻く騒動。

言動などを色々と検証をして、「この人は守るに値するか」という値踏みがガンガンに為されていく、そういう雰囲気。

(個人的には、そうやって生活保護だなんだで他人を値踏みしてる連中が、国民を守るためだなんだと集団的自衛権を推しているであろうことが本当に虚しいのだが)

守るべき人かどうかを選別していく作業を行う国民によって形成される国家が、どのような理由で国民を守るのだろうか?

例えば、守るべき正当性を見つけている間に、事が重大になる、そんなことを主張しているのが国家緊急権の理屈だと思うが、国家緊急権を行使する国家が、国民を選別していく国民の民意を背景にしていると考えると、表向きの理屈が正しかろうが賛同することが困難になる。

守るべき正当性をきちんと国家に与えないと、国民を守ってくれないような国家に、大きな権限を与えることは、躊躇せざるを得ないと考えてしまう。

(話が横にそれるが、考えると、私が右翼系の政治家を信用しなくなったのもここが理由のように思う。外国籍であるなど、色々な理由で生活保護受給者などを選別していく様が見えていったからだろう。「国民を全て守る」と言うが、その「国民」なるものは、折り紙の折り方〈【安田さん解放】ネトウヨ「両親の折った千羽鶴の形が変だ。韓国式だ!」→昔から日本にありました〉や喋り方〈「9月、東京の路上で」などに詳しい関東大震災関連の虐殺事案をイメージすると容易い〉、容姿〈インターネットの書き込みで容易に見つかるだろう〉という「印象」程度で選別されるような脆弱な資格である可能性が高いのだから。)

そんなことを考えながら、スマホでTwitterを見ていたら、小林よしのりの天賦人権説否定論を扱う5チャンネルまとめに遭遇した。(小林よしのり「生まれながらの人権があるなら、なんで生まれてすぐ餓死した子供が沢山いるんだ?」

小林よしのりは『「人間が生まれながらにして持っている固有の権利」など馬鹿馬鹿しい』と述べているが、国家が人権を与え、保護するという形式を取ってしまうと、たとえそれが「立憲的」であろうとも、(民意が背景にある)国家による選別を許してしまう隙が出来てしまう。

そういうシステムエラーを防ぐための論理が天賦人権説なのだろうと私は考える。

人権は国家が守らないといけないものだが、なぜ守らないといけないかは国家が決めるのではなく、そもそも原点として人間自身に権利が存在していて、それを国家にあずけているにすぎない。これが社会契約論の大まかな流れだった気がするが(伝聞かつうろ覚え)、このように人間としての権利があるのかどうかの判断主体を「天」にすることにより、国家などによる「助けないという判断」を問答無用で無くすことを狙っているのが、天賦人権説なのだろうと私には思えた。

ただ、それが人間による天意の解釈が行われ、「この属性はそもそも天から権利が与えられる対象として想定されてない」みたいな主張が起こったりしてグチャグチャになったことも多いとは思うが。

でも、このようなへんてこな切り捨て論争をみると「天が権利を与えたから守らないといけないの!」と問答無用に黙らせたくなる。(天賦人権説がそんなシンプルな話だとは思わないが)

とにかく、私は、国が人権を守るのだから、『「人間が生まれながらにして持っている固有の権利」など馬鹿馬鹿しい』という思考法は、冒頭のような「この人が護られたのは正解か論争」みたいな物を容易に喚起してしまうのではないかと考える。

それを防げる術がないのならば、私は小林よしのり氏のような思考法より、天賦人権説をとったほうが良いのだろうと思う。

「私はいつ選別されるのか」と思いながら生きていくような状態は勘弁願いたいのです。

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