『ひとり親を救え!プロジェクト』への違和感

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『ひとり親を救え!プロジェクト(http://save-singleparent.jp/)』と言うものが一部で話題になっている。

このプロジェクトは、ひとり親の家庭などにて育つ児童などのために給付される児童扶養手当の額を増額しようというものだ。(一時期子ども手当になった「児童手当」と「児童扶養手当」は別物である)

一部での話題のメインは、このプロジェクトに関わっている駒崎氏と常見氏のやり取りにあるようだが、個人の発言には触れない。
(個人的に、常見氏にも、駒崎氏にもよく思わない偏見があるので)
ただ、プロジェクトの姿勢に違和感を感じたので書き残しておく。
僕が違和感を感じたのは、貧困についての部分ではなく、貧困を受けて、このプロジェクトが要求しているものを掲げた部分だ。

『こうした状況を打開するために、現在二人目月額5000円、3人目以降3000円の児童扶養手当の加算額を、せめて1万円に増額することを政府に要望したいと思います。』

これがこのプロジェクトがだした結論なのである。
この結論のまえには、『子供ひとりの食費にすら足らない』と、現在の二人目以降の加算額を批判しているのに・・・

困窮が厳しく、はやく凌げるようにしたい、と言いたいのは良く分かる。

私は一人親(母親)ではあったが、世帯的に、年金をもらっていた祖父母や、普通に働いていた叔父と同居していたので、実際、母子家庭より、だいぶ恵まれた生活をしてきたと思う。

しかし、それでも周りの家庭よりは羽振りが悪く(母親には本当に今でも迷惑をかけ続けているのを情けなく思う。)、羨ましく見ていた(母親も気にしている節があった)のはあるし
母親の収入などから、母子家庭だったらマトモに生活出来なかったであろうことは理解しているつもりだ。
(羽振りが悪かった理由は、同居はしていても各自、生計はある程度独立していたからで、いわば“緩やかな母子家庭”という感じだったからだろう。)
だからこそ、私はこの結論の『せめて一万円』という要望に違和感を覚えてしまう。

貧困にあるひとり親家庭はその程度の増額で果たして救われるのか?
それこそたった5000円から7000円の増額で。
(食費の例えに合わせると、食べ盛りの子供に、1日約333円で足りるのか?)

なんというか、このプロジェクトに足りないのは、理想・希望なのではないか?

確かにどれだけ貧困に陥っているのかという事実は重要だし、現実的な目標も大切だろう。
しかし、やはり最終的にどのようになるべきか、それがないのが非常に違和感がある。

まさか、『せめて』が最終目標では無いだろう。

『せめて』より先にあるべき展望、希望をプロジェクトとして見せるべきではないのだろうか?

ついでにいうと、この『せめて』というのは、あまり使って欲しくない言葉だ。

このプロジェクトに参加されている方々はこれまで様々な活動を積み重ねてきた方々だ。
それは十分理解している。

しかし、プロジェクト自体は、スタートしたばかりなはずだ。
その第一声が『せめて』では、なんと言うか、あまりにも救いが無さすぎるように思うのだ。

『せめて』という言葉は、ある程度活動を進めてから言ってほしいし
もっと贅沢を言うと、正式な文書や宣言等々において『せめて』という言葉は使って欲しくない。
何度も言うが、プロジェクト参加者が、これまで様々な活動を積み重ねてきた方々なのは理解した上で、これをわたしは述べている。
なぜ使って欲しくないのか?
現在、さまざまな場面で『生活保護は施しではない』だとか、社会福祉にかんするスティグマが問題になっているなかで、『せめて』という文言を使うのには慎重になるべきではないか?と考えてしまうのだ。
その『せめて』という言葉は、施しという視線を肯定してしまうのではないか?と。

(個人には触れないと言っていたのを覆してしまうが、個人的に駒崎氏っぽさを『せめて』から感じてしまう。正しければ細かい事は・・・的な“強さ”というか、なりふりかまわない感じが。実際に文書を書いたのは駒崎さんではないとは思うし、そのような剛胆さがないと、とても活動で表に立つことに耐えられないであろうことも理解している。)

ここまで、プロジェクトに批判的な文言を積み重ねてきたが、児童扶養手当の増額自体には当然賛成だ。

私は、何人子供がいようが、一人当たり満額42000円が統一して給付されるのが、例え給付対象が家庭であり親であったとしても、そこで育つ子供一人一人の人権を等しく尊重するという意味でも筋だと考える。

ただ、この増額の過程で
児童扶養手当は可哀想な家庭がもらう施しである、みたいなスティグマが、『せめて』という文言等々で肯定され、強化される流れができてしまっては、貧困解決という大局から見たら、明らかに逆効果だろう。

私はそれを恐れるし、それへの配慮がなさそうなプロジェクトの姿勢に違和感を感じてしまうのだ。

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