謝罪よりも重要な事があるということ ニューズウィーク日本版 2015年8月18日号

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今回は『ニューズウィーク日本版 2015年8月18日号』の記事をご紹介。

この号は安倍談話がまだ発表前に出ているもので、戦後70年の特集があり、そこら辺に関する記事がいくつも掲載されています。

その中でも私は『謝罪は解決策にならない』という記事と『遠い記憶の先に終止符を探して』という記事の二つの記事に注目しました。

『謝罪は解決策にならない』という記事は、ジェニファー・リンド氏という米ダートマス大学助教授の方が書いた論考。

『遠い記憶の先に終止符を探して』という記事は、元捕虜収容所長を祖父に持つNewsweekの記者の方が、全米バターン・コレヒドール防衛兵の会というアメリカの戦友会に参加したレポート・コラムのようなものです。

 

まず謝罪は解決策にならないという記事、産経などは『謝罪は解決策にならない』というタイトルだけをみて、『だから謝罪外交はやめよう!強気で自分の主張をしよう!自虐史観脱却!』みたいな解釈をしそうだと想像しますし、現に保守系言論でこの方の主張はいくつも取り上げられている(し、歴史問題に関する認識が甘いように私からは見える)のですが、個人的に重要なのは『謝罪は解決策にならない』という部分ではない、と思うのです。

この記事で、私が重要だと思う点は『謝罪のデメリットは保守派が怒り出して、余計な議論を起こして、いろんな方面で印象悪化を生み出す』と言っていること。そして必要なこととして述べられているのが『戦時中に日本軍が近隣諸国にもたらした被害を認識し、戦時中の日本軍の残虐行為や侵略、植民地支配を認め続けること。』であることではないかと思うのです。

まぁ、日本の保守派は黙ってアメリカの価値観に従っていなさい、みたいな事を述べているようにも見えてくるのですが、要するに保守系言論批判の色が強いように個人的には思うのです。

この論考の中に『謝罪することが目的ではなく、誠意を見せることが重要なのだ』という文章があるように、謝罪だけをしても意味はなく反発しか産まないので、まずは誠意を見せる動きをしないといけない、というのはあらゆる被害者対応へのメッセージになっているように個人的には思います。

謝罪だけをして、その謝罪に中身が伴っていないというのは、ニュースを見ているとよく見る光景のように思いますし、そういう謝罪が逆効果なのは誰しも経験したことがあるのではないでしょうか?

要するに中身の無い謝罪をしても意味が無いので、謝罪の中身になりそうな行為をまずは行うべきだ、というどんな場面でも言える話をしているのだろうと思います。

そういう部分で保守系言論が批判されているのを棚に上げて『謝罪は意味が無いんだ!』と保守系言論(サンプル:産経新聞『中韓への謝罪は非生産的…「どんな表明あっても日本に不満述べる」 米識者から続々』)で言われているのを見ると、駄目だこりゃ、と思ってしまうのですが。(謝罪は良いから誠意を見せろ、という要求は謝罪要求なんかより、よっぽどハードルが高く難しいように個人的には思うのですが)

 

で、この内容を受けて読んで欲しいのがその後の『遠い記憶の先に終止符を探して』という記事です。

内容は上に書いた通り『元捕虜収容所長を祖父に持つNewsweekの記者の方が、全米バターン・コレヒドール防衛兵の会というアメリカの戦友会に参加したレポート・コラムのようなもの』です。

まずこの「バターン・コレヒドール」という地名で、一部の人はとある日本軍の残虐行為を思い出すのではないでしょうか?

バターン死の行進

7万人あまりの捕虜を100キロ近い距離、炎天下に飢餓状態で歩かせて、マラリア、飢餓、疲労、処刑などで多くの死亡者を出したという、戦時下に起きた戦争犯罪の一つです。

このバターン・コレヒドール防衛兵の会というのは、バターン死の行進の生存者や遺族などが集う民間団体です。

このバターン死の行進から生還した方の子どもなどは、親が戦争体験でPTSDになり苦しんでいるのを理解しようとして、当時起こったことを調べた結果、日本に対して憎悪を抱くことも少なくないようです。

一方、この記事を書いた記者の方の祖父は釜石収容所の所長を行っていて、B級戦犯として5年半、巣鴨プリズンに拘禁されていたそうで、その所長をしていた釜石収容所にもバターン死の行進からの生存者がいたそうです。(アジア・太平洋で捉えられた捕虜の一部が、『地獄船』で日本の収容所に送られていた)

そのような戦争犯罪で裁かれた方を祖父に持つという記者がとある元捕虜の方にインタビューしている模様がこの記事のメインの内容なのですが、その元捕虜の方の発言内容を書いている文章に、以下の文言があるのです。

『日本は「正直な」歴史を語るべきであること、そうすれば自分に対する謝罪など必要ないこと』

ここにも『謝罪必要ない』という主張が出てきました。ただし謝罪が不要になる条件がきちんと存在しています。それが『「正直な」歴史を語る』こと。

「正直な」とカギ括弧がわざわざついていることから、その部分だけ要約せずに、本人の発言をそのまま引用したのだと思います。

正直な、英単語的には『guileless』か『sincere』のどちらかで、正直な以外の意味としては『guileless』は『こうかつでない、悪だくみをしない、純真な』。『sincere』は『うそ偽りのない、言行一致の、誠実な、心からの、偽らぬ』という感じの意味のようです。

『「正直な」歴史』、この言葉の私の頭のなかでどこにも落ち着かないんです。

歴史と『正直』という言葉がどうしてもしっくりこないというか、正直な歴史として私の頭のなかに出てきたのは『自慰史観(自虐史観への対抗として語られる史観を表現した単語)』という言葉。

ただ、あれもある意味では机上の空論を中途半端に利用した『形だけの』『偽った』歴史なわけで。

個人的に『すっきりする』ような文言を『正直な』と言われた時に、どう否定したらいいのか、誠実さも正直には含まれるのだ、と対するべきか。などと悩んでいるのですが、とにかく、ここでも『謝罪よりも重要な事がある』と言われているのです。

 

この『謝罪よりも重要な事がある』ということ、これをきちんと念頭に置いて追及しないと、軽薄な謝罪のみで問題が深刻化していくことを見逃すことになる。だから謝罪よりもハードルが高いことを要求していかなくてはいけないなぁ、と思いました。

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