教育勅語を巡る、読売新聞と日経新聞の社説

この記事のアクセス数
424PV
この記事は約6分で読めます。
記事内にアフィリエイトリンク等の広告が含まれています。

先日から、政府·文科省、また自民党が『教育勅語にもいいところがあるから!』と必死に教育勅語を守っています。

教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念として戦前のような形で学校教育に取り入れ指導するということであれば適当ではないというふうに考えますが、一方で、教育勅語の内容の中には、先ほど御指摘もありましたけれども、夫婦相和し、あるいは、朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれているところでございまして、こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えないものと考えております。

文科省 藤江陽子大臣官房審議官 2月23日予算委員会答弁(ハフィントンポスト、『教育勅語とは何か? 松野文科相「教材として用いて問題ない」と発言(全文・現代語訳)』より引用)

 

その上で伊吹氏は「必ずしもいいものばかりが教育勅語に含まれているのではない。しかし、親に孝行する、兄弟仲良く、公に尽くすといったことは、否定する人は誰もいない。いいものは日本人として取り入れていこうじゃないかということを言っているだけだ」と述べた。

自民・伊吹文明元衆院議長、教育勅語の教材使用批判に「すべて盛り込むとは誰も言っていない」(伊吹文明は第一次安倍内閣の文科大臣)

この流れに乗るように、自民党と共に下野した経験のある産経新聞が朝日新聞·毎日新聞·東京新聞を批判する『教育勅語を全否定する野党と一部メディアの大騒ぎ それこそ言論統制ではないか』という記事を掲載するなど、与党周りは概ねそういう方針のようです。(公明党は稲田大臣に軽く苦言を述べた程度。

一方で、しばらくあまり言及していなかった(と私は把握している)読売新聞と日経新聞が先日、“社説”にて教育勅語に言及しました。

内容は政府批判までは踏み込んでいないものの、道徳教育に使うこと自体を“全否定”していて、読売新聞はさらに教育勅語を『法的効力を失った史料に過ぎない。』と表現し、日経新聞も『勅語は部分ではなく全体の効力を失ったと解すべきだ。道徳の教典として復活させてはいけない』と記すなど、『教育基本法を策定した当時の教育の専門家による教育刷新委員会は「親孝行」や「友情」といった時代を超えた道徳の基準である教育勅語の精神を否定するつもりはなかった』と記す産経新聞とは一線を画している、そういう社説てした。

個人的には、読売新聞はこういう部分では戦後回帰しない歴史観を(危ういながらも)貫いているように思います。日経新聞も、東京裁判の資料を読み解く本を出しているなど、戦前回帰とは遠い歴史観のように思います。

これらに対し、「教育勅語の取り扱いについて長官は、積極的に教育現場で活用する考えは全くない、などと説明している。しかし、そういう中で昨日、今日と連日、野党や一部メディアから教育勅語を否定させようとする質問を受けることについては、どのようにお感じか」と官房長官に質問をするほど前のめりだった産経新聞はどう反応するのでしょうか?楽しみです。

2つの社説を以下に転載します。

 

読売新聞

 教育勅語は、大日本帝国憲法と不可分の存在だった。その事実を忘れてはならない。

政府は「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切だ」とする答弁書を閣議決定した。民進党議員の質問主意書に答えた。政府がこれまでに表明していた見解に沿っている。

答弁書は、教育勅語を「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」とも言及した。

実際、高校の日本史や公民の教科書には、教育勅語の全文や抜粋を掲載しているものもある。日本の大きな転換期だった明治から昭和期にかけての歴史を学ぶ教材として、教育勅語を用いることは、何ら問題がないだろう。

ただし、道徳などで教育勅語を規範とするような指導をすることは、厳に慎まねばならない。

明治天皇が1890年に、君主に奉仕する「臣民」への教えとして示したのが教育勅語だ。

「皇祖皇宗」以来、連綿と続いてきた「国体の精華」の維持を教育の根源とした。危急の大事には、皇室・国家のために尽くすことを、天皇が国民に求めている。

天皇中心の国家観が、国民主権や基本的人権を保障した現憲法と相容あいいれないのは明らかだ。道徳の教材に用いれば、学校での特定の政治教育を禁止した教育基本法にも抵触する可能性がある。

戦後、国の教育指針は、現憲法の精神を踏まえた教育基本法に取って代わられた。1948年には衆参両院が、教育勅語の指導原理を排斥し、失効させる決議を採択した。教育勅語は、法的効力を失った史料に過ぎない。

国有地売却問題で揺れる森友学園は、運営する幼稚園で園児に教育勅語を暗唱させていた。

これに関連して、稲田防衛相は国会答弁で、「道義国家を目指すという教育勅語の精神は取り戻すべきだ」と述べている。

確かに、親孝行や夫婦愛など、現在にも通じる徳目を説いている面はある。しかし、教育勅語を引用しなくても、これらの大切さを教えることは十分に可能だ。

菅官房長官が「政府として積極的に教育現場で活用する考えはない」と強調したのは当然だ。

過去には、建国記念の日に校長が教育勅語の朗読をしていた島根県の私立高校に対して、県が改善を勧告した事例もある。

教育現場で憲法や教育基本法の趣旨に反する行き過ぎた指導があれば、是正する必要がある。

教育勅語 道徳教材としてふさわしいか 2017年04月06日 06時05分

日経新聞

 

 教育勅語を巡る応酬が収まらない。勅語は大日本帝国憲法の下、天皇を君主、国民を臣民とする国家観を補強する目的でつくられた規範だ。史実として学ぶ意義はあるが、子供たちの道徳教材として用いることは妥当ではない。

政府は教育勅語について「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定した。現に中学、高校の歴史、公民などの教科書には勅語の全文、または一部が掲載されている。近現代の史料として勅語の果たした役割を学ぶことに異論はない。

むしろ勅語が示す家族国家観が戦時の総動員体制とどのように融合したのかなどを、生徒の発達段階や興味、関心に応じ、能動的に学ぶことは、新しい学習指導要領の趣旨にも合致するだろう。

今回、教育勅語が注目されたのは、学校法人「森友学園」(大阪市)が運営する幼稚園で、園児に暗唱させていたことが問題視されたからだ。勅語が説く夫婦愛などの徳目が現代社会でも通じる、と擁護する閣僚の発言もあり、波紋が広がっている。過去の経緯を踏まえ、冷静に議論すべきだ。

教育勅語は1890年、大日本帝国憲法が施行された年に発布された。親孝行など臣民が守るべき徳目を列挙する一方、「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身をささげて皇室国家のためにつくせ」(旧文部省の通釈)と説く。

個々の徳目の当否以前に、天皇が臣民に説諭する「語りの構造」自体が、国民主権を原理とする現憲法になじまないことは明白だ。1948年に衆参両院が、排除や失効を決議したゆえんである。

その意味では、学校現場を預かる松野博一文部科学相が、「道徳を教えるために教育勅語のこの部分を使ってはいけないと私が申し上げるべきではない」との認識を示したことには違和感を覚える。

勅語は部分ではなく全体の効力を失ったと解すべきだ。道徳の教典として復活させてはいけない。

教育勅語は道徳教材に使えぬ 2017/4/9 2:30 朝刊

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました