籠池氏は結局愛国無罪だった。

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「国家社会のためにいい人材を出そうとしている教育の中身を阻止しようとしている人たちがたくさんいます。そういうことでは困るんじゃないですか。日本国を存続させるために立派な人材を作ることが教育であるなら、もう少しあたたかい目で見るべきじゃないですか。どうぞ、この学校を開設させていただきたい。それだけであります」(森友学園 籠池泰典理事長)

森友学園・籠池理事長、報道陣の前で持論展開

金曜日に行われた申請取り下げの記者会見でも、『なぜここまでされるのか。何で見守ってくれなかったのか』などと述べていたようですが、結局籠池氏は愛国無罪、私は正しいことをしているから細かい点のミスは仕方ない、という思い込みから逃れることは出来なかったのでした。
多分、これまで問題視された行動の殆どの根底には、そのような考え方があったのだろうと思います。

この考え方は、籠池氏に特有のものであるわけではなく、この考え方はあらゆる時代で問題視されているように、私は思います。(正義の暴走、とかみたいな話)

そして、籠池氏が子供に暗唱させて、稲田朋美氏が再評価を狙っている教育勅語が問題視されることは、この考え方に関連しています。

皇室のため、そのような大義名分が、「正しいことをしているのだから、大目に見てほしい」というものと合体すると、止められる人が、誰もいなくなってしまうわけです。(○○のため、の○○の部分が意思を持ち得ない[持ってしまうといけない]存在であることがポイントかと思われますが、細かいことは別な機会に。)

否定できない概念を表にもちだしつつ、実質では…ということになってしまい、それが非常に否定し辛いことになってしまう問題。

教育勅語のこういう部分の問題を、問題視しないくせに、左派側のそういう問題ばかり問題視してる人間を見ると、大丈夫かなぁ、と思うのですが、この籠池氏もそういうカテゴリーの人間なのだと思います。

大義名分を背負うことで自分の酷さを隠すという行為が、いろんな場所で目立ちますが、そのようなことについて、各々自戒することを忘れずにしていたいものです。

(一方で、他人の醜い行動について過敏になるのもどうかと思うのですが、それを主張して自己正当化するのもおかしい[籠池氏もやってますが]わけで、ここらへんの問題のバランスは難しいなぁ、と思います。ただ、籠池氏は明らかにバランスが崩壊しているので、指摘しているわけです)

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