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平和

2014/08/11 土屋正忠氏による長崎市長批判について

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土屋正忠曰く
『被爆地長崎市の市長が核廃絶を主張することは重大な使命である。』
しかし、『長崎市長は歴史的体験を踏まえた核廃絶について語るから権威がある』だけで、現実政治の一部である『集団的自衛権云々という具体的政治課題に言及すれば権威が下がる』
なので『核廃絶の祈りではなく、平和を維持するための政治的選択について語りたいなら長崎市長を辞職して国政に出ることだ。』
だそうだ。

 

市長の仕事がお祈りってあれですか、市長は天皇陛下ですか。(天皇陛下はまさしく『祈り』によって国民を統治〈まつりごとで治める、まさしく政治〉していると思う)

 

祈念式典であることは当然ですが、それが“平和”祈念式典である以上、平和を妨げる懸念があるものに言及するのは当然でしょう。
また東京新聞に拠るとこの集団的自衛権に言及した長崎平和宣言は市長だけで決めたわけではなく『被爆者や大学教授ら一五人の起草委員会で決める』ものであり、最初に市側(要するに市長側)が提示した原案には集団的自衛権への言及は一切なかったそうだ。
そしてそれに言及せよと詰め寄ったのは『被爆者協議会会長』さんなのだそうだ。(長崎大核兵器廃絶研究センター長の方も主張していたという)

 

それを受けて、あの平和宣言に集団的自衛権への言及が追加されたのだ。

 

それをまるで『市長が政治利用するために追加した』かのように書き立てるのは、事実誤認も甚だしいのではないだろうか?

 

さらに言えば、この土屋正忠氏の発言は『地方はお祈りをしていればいい。現実的なことは国政に一任しなさい』という姿勢のように見える。
これは要するに『地方は請願を出していればいい。後はこっちで全部やってあげるから』という姿勢のように見えてしまうのだ。
もしくは『理想は理想、現実は現実』という諦めの精神を押し付けてこようとしているかのように。

 

そういう『国政とそれ以外の乖離』や『理想と現実の乖離』への懸念(批判)が、あの宣言の『懸念』には浮かび上がってくることに気付かないのだろうか?

 

そこで『市長がそれを語りたいなら国政に出なさい』という一言を述べてしまうのは、あまりにもおかしい行為だ。
国政に出なければ現実的なことは一切語ってはいけないのだろうか?

 

祈りという勝手な権威をそこに作り上げ、勝手な権威を『権威が下がる』と勝手に落とし、そして勝手に『権威のために貴方は辞めなさい』と言い出すのは、あまりにもふざけては居ないだろうか?

 

そもそも『平和のための政治的選択』と表現しているのだから『それは平和にはつながらない』と考えた場合、懸念を示すのは当然ではないか?
自分の信念が否定されたから式典の権威を下げようとしているのではないか?

 

そして元々政治というのは政、つまり『まつりごと』によって『治める』ものであった。
要するにまつりごと(式典)には政治は関わってくるのは当然のことなのである。
戦後は政教分離といってそういう部分が批判的に見られたり、忘れられたりしてしまっているが、政はまつりごとであることは分かちがたい事実になのだ。(竹島記念式典などを見ると余計わかるのではないだろうか、政治と式典のつながりに)

 

また、市長の発言が出たのは『宣言』であることを考慮しないといけない。
宣言とは祈りの言葉を出すことではない。
意見や方針を外部に表明することだ。要するに懸念を示しても意見の範囲内だからいいのだ。
宣言には政治的方針が含まれて、政治的選択に言及するのは当然なのではないだろうか。(極端に言えば核廃絶を祈ることさへ抑止力としての核をもとうとする政治的選択に言及していることにほかならないだろう)

 

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