日本の世論での『自助・共助・公助』と本来あるべき姿

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福祉問題などを追っていると『自助・共助・公助』という言葉にたどり着くのではないでしょうか。

この言葉の意味を私はこう思っていました。

自助:出来る限り自分の力で解決する

共助:地域住民など民間の仕組みで解決する

公助:行政などの支援で助ける

この言葉、どうも福祉より災害の方面でよく使われているようで、災害の場合定義は以下の感じのようです。(このリンク先の記事は今回の私の記事で述べたい内容に似ている部分があるために、これ以外の部分も読むことをオススメします。似ている部分はきちんと引用しますが。)

自助とは、いわゆる自助努力のことで、災害時に自分で何とかすること、あるいはそれを前提として備えておくことを指します。共助とは地域コミュニティやボランティアなどによる助け合いのことを指しています。そして公助とは行政など公的機関による支援を指しています。

阪神・淡路大震災から20年、共助を軸としたあたらしい防災へ / 永松伸吾 / 災害経済学 | SYNODOS -シノドス-

一方、福祉の面では『自助・互助・共助・公助』という互助を含めた4つに増えることもあるらしく、それは以下の意味を指すようです。

自助:自分の力で住み慣れた地域で暮らすために、介護予防活動に取り組んだり、健康維持のために検診を受けたり、病気のおそれがある際には受診を行うといった、自発的に生活課題を解決する力。

互助:家族、友人、クラブ活動仲間など、個人的な関係性を持つ人間同士が助け合い、それぞれが抱える生活課題を、お互いが解決し合う力。また、それらの活動を発展させると、地域住民やNPO(非営利団体)などによる、ボランテイア活動や、システム化された支援活動となる。

共助:制度化された、相互扶助。社会保険制度、医療や年金、介護保険など。

公助:自助・互助・共助でも支えることが出来ない問題に対して、最終的に対応する制度。 例えば、生活困窮に対する生活保護や、虐待問題に対する虐待防止法などが該当する。

「自助・互助・共助・公助」からみた地域包括ケアシステム | 地域包括ケアシステム.net

昨今、様々な福祉に関する話を見聞していると、『自助・共助・公助』という3概念が成り立っていないように私には思えます。

昨今、福祉界隈で”日本の世論”に存在すると私が発想するものは以下の形のようなものです。

自助:自力で助かる。人脈を頼ることも含む。

公助:極稀に税金による支援で助ける。

この自助と公助の隙間を埋めるような物が、正直貧困化しているというか、存在感を失っているように思うのです。
(これは活動してる方が力不足であるとか、福祉関係者が共助を疎かにしているとか、そういう話ではなく、日本の世論を形成している人間の注目がそちらに向いていない、というような意味です)

細い主張内容は後にリンク先に行って読んで欲しいのですが先ほど引用した「阪神・淡路大震災から20年、共助を軸としたあたらしい防災へ / 永松伸吾 / 災害経済学 | SYNODOS -シノドス-」という記事では『自助が共助を破壊する』『自助が公助を駆逐する』ということを検証・主張しています。

福祉に関しても、これと同じことが言える、と私は思うのです。

先程の記事内では『補完性の原理(補完性の原則)』というものに触れられています。これは要するに『自助に限界があるから、共助・公助でそれをサポートするんだ』という考え方を指します。(「民間で出来ることは民間で」という考え方に通じるやつです。)

この補完性の原理がなぜ共助・公助を破壊・駆逐するのか。
要するに『自助が限界まで引き出されることで、共助や公助を阻害してしまう』ということなのです。

しかもこの補完性の原理が危ないのは自助の限界には個人差があるのに、それが考慮せずにどこまでも限界を追い求めることが出来てしまうのが問題なんです。
しかも『デキる人ができない人を置き去りにする』ことも可能なわけです。
そういう部分が危ういんです。

また、合成の誤謬という言葉があるように、一人ひとりの自助を最大化させた結果、集団としては不利益を被るという話になることもありえるわけです。

 

先程の記事は、最終的に『自助を強調するだけでは防災は進まないどころか、むしろ弊害が多いということ、そして自助が機能するためには、その基盤としての共助が充実しなければならない』という提言に至っています。私もその主張に賛同します。

先ほど日本の世論が自助と公助だけになっていると書いたように、共助に関する部分が世論から欠如していて、そこの欠如が様々な生きづらさを生産しているように思うのが私の認識なのです。

 

濃密すぎる距離感のコミュニティの弊害(ムラ社会)に繋がるようなものや、復古的な社会をこれ以上生産するのは勘弁いただきたいのですが(そういう意味で憲法を持ちだして『個人主義だから云々』と言い出して家族の強化を訴えたりするような人とは共闘不可能。共助を家族に押し付けるのは結局自助の強化の延長線上としか思えないので。)、それを前提にしても適切な距離感のコミュニティを形成することは必要だと思うのです。

ただ、この『適切な距離感のコミュニティ』というものについて何らかの絵を描けるのか、と言われた場合に描けないのが、一番の問題であり“日本の世論”から共助がすっぽぬけている一番の原因なんだと思いますが・・・。それでもやはり描く努力はしないといけないんだろうな、と思うというのが、今の私の結論です。

 

おわりに

自助,共助,公助の対策に関する意識について」という内閣府が行った世論調査の結果が個人的に興味深かったです。

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