運用改善は大抵誤魔化される

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「制度は悪くない。運用改善で対応する」
このような言葉が、外部制度を変えることを訴えられた当事者から飛び出すことがある。
この弁明を聞いた時、多くの人には絶望が訪れるのではないだろうか。

この弁明は、第三者ではなく当事者の人が行っていることがポイントだ。
この弁明は要するに「運用をまともに出来てませんでした」という表明である。
そして、この弁明が出た後も、大抵、運用がまともに出来るようになることはない。
そして、実際に運用がまともになされておらず、運用がまともになされない理由が大抵は存在し、そしてそれそのものはこの弁明によって温存されてしまう。

制度というものは外から見える。
そして外から見えるからこそ、外から手を入れることが出来る。
ただし、外から見えるものは外枠でしかなく、大枠でしか変わらない可能性が高い。
(制度の骨抜きは組織の得意技である)

一方、運用というものは外からは見えずらい。
外から見えずらいということは、外からは手出しが出来ないに等しい。
(外からいくら指摘されても、いくらでもごまかしができる)
そして、外から見えない部分というものは、組織からしたら「根っこ」なのである。
「運用改善で対処する」という言葉は軽く見えるが、実は制度を変えるよりも、変えるのが困難なのが運用なのである。

そして、この弁明が飛び出したとき、そこに明示されている事実は「その組織は外からは手出しできない」「外の人間とされた我々は黙って組織の在り方を受け入れるしかない」ということだ。

この「運用改善で対処する」という言葉が、ニュースで「運用改善にとどまった」と評価されてしまうくらいには「骨抜き」とか「批判を受け流す」際に使われるようになってしまった。
運用は温存するのが簡単だから使われるのだろう。
そして、本当は一番変わってしまったら大変なことになる、その組織の根本を変えると表明していることを、誰も信じなくなった。
そして運用が変わることについて「ごまかし」と評価されるようになってしまった。
結果的に、誰も運用が根本だと考えなくなった。

でも実は運用とは組織の根っこなのだ。
だから運用改善は困難であり、薄っぺらい弁明程度に使う覚悟では運用は変わらないのだ。
つまり「制度は悪くない。運用改善で対応する」程度では、その言葉は「お前らなにも知らないのに口を出すなバーカ」程度の意味にしかならないのだ。

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