投票率向上単体を追うと、失望が増え、社会が濁る

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「投票に行こう」なんてことが選挙キャンペーンとして選挙近辺になると突然言われ出す。
それは「投票率が上がるのはいいことだ」というような安易な結論らしきものを元に(?)、「投票率が低いのはよくないことだ」と考えた結果のキャンペーンなのだろう。
しかし、このキャンペーンは長期的に見ると、投票率を低く抑える原因になるのではないか、と私は思う。
なぜならば、投票率の低下には、投票を行う有権者側以外にも、投票を受け付ける立候補者側が関係する理由が係わっていて、その解消を働きかけることなく、その場しのぎで投票率を上げた所で、投票者に失望をもたらし、政治の機能不全と言われる現象を加速させることになるからだ。

投票率というのは、基本的にはそのカテゴリーの政治の状況全般の成績を示す結果の数字だと思う。そういう結果の数字は、無理に上昇させたとしても、そのプロセスが酷い場合、その結果は「不健全な結果だ」としか言いようがないのではないか。
例えば、某自民党参議院議員が創業した居酒屋グループ等々のように、業績が良くても、それが従業員を酷使した結果だとしたら、その数字は信用できない、ほめることはできない数字なのではないか。
投票率もそれと同じで、有権者にプレッシャーをかける形で、自主的な意欲がそこまで強くないのに、投票をさせたとしたら、そんな形で上がった投票率は何も素晴らしくはないだろう
(例えば義務化して罰金を科したことで投票率が上昇したとして、それは素晴らしいのか?)

「投票をきっかけに興味をもってもらえれば」なんて意見もみたきがするが、それは幻であったり、悪い方向に走る興味である場合が多いのではないだろうか?
特に、ろくに事前の準備が不足したまま投票にだけ行ったとしたら、その後待ち受けているのは期待の空回りによる失望なのではないか?
それでも「とにかくまず投票」と言いたいならば、きちんと「特に何かメリットがあるわけではないが、投票に行こう」程度には期待を煽らずにキャンペーンを行うべきではないか?

ちなみに、期待をさせないという方法以外の失望予防策は、先ほどしれっと内容に触れずに書いた『事前の準備』を充分に積み重ねて置くことだと私は考える。

投票が失望に変わる理由の大部分を占めるのは、特定候補者に票を投じた意味を勝手に解釈されてしまったことによる意志の齟齬なのではないか。
それを防ぐために、事前にある程度、(政治参加的なことを行って)意見の存在を社会に示す必要がある。
この意見の存在を投票によって行う事を促す言説もあるが(若者政策、表現の自由等でよく聞く)、これも事前に(若者政策を例にすると)『若者政策とは何か』をはっきりとさせたりして、存在を具体化させておかないと、一番最悪な話、ただの現状追認票だと解釈されてしまう可能性だってあり得るのではないか。
それを避けるためにも事前の準備は欠かせないだろう。

また、意見の具体化と書いたが、同時に意見の固定化も必要となる。
意見の固定化というのは、その意見を持つ勢力の固定化である。
この勢力の固定化がないと、意見が分断され、勝手な解釈を許してしまい、失望することが避けられない可能性が高い。
この勢力の固定化は、要するに集団化である。
集団化を確実に行うためには、自分の一票が真っ白な一票に成り果てる前に、さまざまな行動を行い、社会に自分の色を塗りたくるかのようなことを行う必要があるのではないか。
そして、そのように社会に塗られた色の多様さが、投票率の高さを産み出すのではないだろうか?(選挙制度、選挙区制度による投票率の左右もありますが…)

つまり、社会にさまざまな色を塗りたくることが投票率を高める近道なのではないか?
そのような努力もせずに、投票率向上だけを追うことは、結果的に現状追認を強化し、社会的な問題を温存していくだけなのではないだろうか?(現状追認だから行政は投票率向上キャンペーンを行うのでしょう)

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