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『原発事故さえなければ助かったのでは』と思っている人は多いのでは

2015/11/06 267views

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今回、引用するような『津波被害者救助と原発事故(放射性物質放出)の関係』というものは、見落とす人が多いように思う。しかし、コレも原発事故の教訓として、出来る限りの再発防止がなされなければならないと思われるのだが、正直非常に困難のように思う。だからこそ目を背ける人が多いのだと思うのだが(例えば『救助の遅れで何人亡くなったのか?規模は万単位とは思えない。数十から数千の間だろう。』などと誤魔化して。実際は被害が数十人であろうが、悔しい思いをする二次被害者が多いのは明らかだろう。万単位でなければいいというのはどの視点、どういう観点で語っているのか、朕は国家なりという姿勢なのだろうが、心底くだらない)。

一方で対策と称して『避難指示をわざと遅らせる』という本末転倒な事が行われそうなのも恐ろしいのですが(『今の放射能への理解からすれば遅延することもなかったかもしれない』という言い分を見るとそういう人たちの望む方向はそういう方向なのが伺える)。実際は原発事故によって行うべき作業が増え、津波被害者救助に割ける人員が減っていることも遅延の大きな要因なのだが、それを知ろうと思わないから『放射能への利害があれば遅延することはなかったかもしれない』などと思えるのだろう。

 

原発から至近距離で5キロメートルほどの浪江町のボランティア消防団員たちは、夜明けとともに生存者の捜索を再開するはずが、車で町内を隈なく回り住民に避難を呼びかけることになった。

 

原子力発電所の敷地から半径10キロメートル圏内の救助作業員や住民によると、地震が原発事故に発展するなかで、人手不足などの問題に阻まれ、津波の被害者の救助活動ができなくなってしまったという。太平洋沿岸の他の町では、地震後の3日間も全力を挙げての捜索活動が続き、多くの生存者が救出された。しかし津波直後に立入禁止区域となった福島原発に近い町の住人は、早々に打ち切られた救助活動の記憶に今もさいなまれ続けている。

浪江町町長馬場有氏はインタビューで「助かる命も助けられなかったという思いがある。ずっと後ろ髪を引かれるようだった」と述べた。

 

3月11日の夜、町会議員の泉田重章氏も請戸川付近の救助活動に参加していた。その地域ではその夜遅くに数人が救助されているので、他にも生存者がいた可能性は十分にあると泉田氏は言う。泉田氏自身、1人の生存者を川から引き上げる手助けをしているし、川岸に打ち上げられた家からは家族3人が救助されている。同氏は、自分と消防団員の高野さんがその晩にいた場所の近くにある橋の下で、のちに数人の遺体が発見されたことを最近になって知った。「(捜索を)続けられなかったのは非常に残念」と泉田氏は悔やんだ。

 

避難が必要だったことに異論をとなえる住民はほとんどいない。浪江町の一部の地域では汚染が周辺地域でも最悪のレベルだったことが後に明らかになったからである。

しかし町長は、避難命令のせいで津波の犠牲者の遺体の収容が遅れたとして、福島第1原発を運営する東京電力に抗議してきた。4月半ばに捜索隊の浪江町入りが許可されたときには、遺体の腐敗が進み、身元を特定するのにDNA鑑定をしなければならなかった。馬場町長は「我々は遺体の尊厳からして与えてあげられなかった。責任は東京電力にある」と語った。

 

ボランティア消防団の救助活動は3月12日の昼頃に打ち切られたが、プロの救助隊による捜索はその日の夜まで続けられた。浪江町と福島原発周辺の他の7つの町を含む双葉地方広域市町村圏組合消防本部の消防指令長、安倍一夫氏は断言する。「捜索は隈なくした。助けてくれと言う人がいれば、全て助けている」。仮に12日に全力を挙げた救助活動が可能であったとしても、濡れたがれきの下敷きになった人が、氷点下の夜を耐え抜くことができたかどうかは不明である。

それでも、安倍氏は、救助隊の規模を削減し、100人余りの隊員の多くを避難の支援に充てなければならなかったと言う。「原発の事故がなければ、もっと丁寧で迅速な救助活動ができたことは間違いない」と同氏は述べた。

 

以上のソース:今も頭から離れない「救助できたかもしれない命」―浪江町消防団員の苦悩

 

東京電力福島第一原発事故で東日本大震災の津波などの犠牲者の救助や捜索が遅れ、精神的苦痛を受けたとして東日本大震災浪江町遺族会は9日、東電に対し、犠牲者164人の遺族333人分の慰謝料計52億6900万円の支払いを求めて政府の原子力損害賠償紛争解決センターに申し立てた。
同会によると、原発事故の影響で行方不明者の捜索が1カ月間行われなかったため、遺体の発見が遅れ、遺族は甚大な精神的苦痛を被ったとしている。申立書では、現在も行方不明の人も震災直後に捜索・救助活動が実施されていれば、発見されていた可能性があると指摘している。今回の申し立てでは、犠牲者1人当たり慰謝料1100万円を請求した。

 

叶谷会長は「1カ月以上も家族の遺体を放置されたつらさは言葉では表現できない。がれきの下で助けを待ちながら亡くなった町民も多くいるはずだ」と語った。

以上のソース:「原発事故で津波救助遅れた」 浪江町遺族会が慰謝料申し立て

 

東京電力福島第一原発事故の影響で救助・捜索活動が遅れ、精神的な苦痛を受けたとして、東電に慰謝料の支払いを求めている東日本大震災浪江町遺族会は22日、原子力損害賠償紛争解決センターが示した一家族当たり上限300万円の慰謝料を支払うとする和解案の受け入れを決めた。

 

センターに慰謝料の増額を求めていた遺族会の叶谷守久会長は「不本意だが、やむを得ない。東電は慰謝料減額を求めるなど遺族の思いを踏みにじった」と憤った。

以上のソース:上限300万円の和解案受け入れ 浪江町遺族会

 

「悔しい、悲しい。いつまでもこの気持ちは消えませんねぇ」。町長はゆっくりと言い、町並みがなくなって荒れ果てた一帯を見つめました。 「助けられる命がたくさんあった。でも(2011年)3月12日の避難指示で、それができなかった。このへんはねぇ、家がたくさん建ってたんですよ」。問わず語りに、あのときを振り返りました。

 

津波に襲われた2011年3月11日、がれきの隙間や屋根の上では助けを求める声がいくつも上がっていました。同時に町の南にある第1原発ではメルトダウンへの緊急事態が刻々と進みました。浪江は町の半分ほどが第1原発から20キロ圏内です。翌12日早朝、馬場町長は国や県の指示が何もない中で、10キロ内の町民に避難を促しました。救出や捜索どころではありませんでした。

警察などの捜索活動が始まったのは1カ月後でした。野ざらしだった多くの遺体は損傷が激しく、外見では身元が判別できない状態でした。放射性物質が付着している可能性があるとして、横たえた遺体にはホースで水がかけられました。死者の尊厳はもとより、その光景を見てしまった遺族の尊厳も踏みにじられました。助けてやれなかった。捜してやれなかった。原発事故さえなかったら、もっと早く捜せてあげたのに。身内の遺体が見つかった遺族にも、見つからない不明者の家族にも、深い心の傷が残りました。

以上のソース:町長の涙、姉妹の誓いー震災原発3年の福島県浪江町

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